出自と天暦年間の建言
- 陳思謙は字を景譲といい、祖祜の伝に家系が見える。少くして孤児となり聡敏で邵雍『皇極経世書』に通じた。天暦初年(1328年)丞相高昌王伊都呼の推薦で40歳で召され、典寳監経歴、礼部主事として教坊・儀鳳二司の礼部併合と朝会の席次を建議し詔許された。
監察御史としての建言
- 至順元年(1330年)陝西行台監察御史として正君道・結人心・崇礼讓・正綱紀・審銓衡・勵孝行・紓民力・脩軍政の八事を建言した。関陝の飢饉で流民の田を倍額で贖い富者に貧者の田を回復させる策を実現。甘粛の父子相続を巡る誣告事件(李擴の酷刑処罰事件)を弾劾した。
- 太禧宗禋院都事を経て監察御史として、興亡の理を漢唐と比較しつつ皇上の聖治を説いた四事を上疏。財政の浪費(賜田・支給・布施)が至元30年比で数十倍に増大し至順の経費が239万錠不足していることを指摘、節減を求めた。
軍站・銓衡改革の建言
- 軍站の消耗に対し馬政の整備(羣牧使司の設置と十監統轄)を提案。銓衡の弊(入仕の門の多さ・黜陟の粗雑さ・州郡任期の長さ・朝省除官の速さ)に対し「三策で四弊を救う」策(衙門の減併、辟挙の科の設置、内外官の交流)を献策し帝はこれを容れた。
- 官居喪中の起復慣行を「三年の喪は達礼」として禁じる制度化を実現。報厳寺の土木事業を「兵荒の後は民力を休ませるべき」と諫め帝に称賛された。
中央・地方官の歴任と晩年
- 右司都事、兵部郎中、御史台都事、重紀至元元年(1335年)淮西道廉訪副使、中書省員外郎として強盗と過失致死の量刑不均衡、姦通殺人の連座規定の不備を指摘し法制化させた。
- 兵部侍郎、右司都事として盗賊蜂起時の賑済と防備を執政に献策。参議中書省事、刑部尚書、湖広廉訪使、淮東宣慰司都元帥、浙西廉訪使を歴任。
- 淮西廉訪使として廬州の盗乱討伐を主導し、宣讓王特穆爾布哈(テムルブカ)を説いて軍備を整えさせ、廬州平定・潁寇撃退に功があった。集賢侍講学士として国律の改定に携わり、至正12年(1352年)治書侍御史から中丞に進んだが、拝命の翌日、病により没した。翰林学士承旨・榮禄大夫・柱国を贈られ魯国公を追封、諡は通敏。