出自と地方官
- 王克敬は字を叔能といい、大寧の人。幼くして丞相諤勒哲(オルジェイ)に器を見出された。江浙行省照磨から検校に陞る。徽州民汪俊の誣告事件を検分し、道理を説いて自ら仰薬させた。
- 江浙行省左右司都事として延祐4年(1317年)四明の倭人互市監視にあたり、過剰な武備を排して恩意で接した。日本征伐で捕虜となり後に帰国を望んだ呉人の受け入れを恐れる同僚に「軍士が恩徳を慕って帰るのを拒めようか、禍あれば自分が責を負う」と言い切って受け入れさせた。
監察御史・地方官としての公正
- 番陽の飢饉で総管王都中が独断で倉粟を放出した際、擅発の罪を問おうとした行省に「千里を隔てて命を待てば民が死ぬ、彼を仁として自分たちが不仁になるのか」と諫めて免れさせた。
- 監察御史として吏部選の慣行の不当な抑留を糺し、治書侍御史張伯高に「世道を賀す」と称された。左司都事として、英宗改革期に江南包銀の負担・両浙塩戸の煎鹽役の重さを訴え軽減させた。
塩法・海運改革
- 紹興路総管として塩5000引の減免を運司に訴えたが聞かれず、後に運使になれば実現すると誓った。行省の舶貨抽分で商人の風水を理由とする不正輸入への処罰基準を明確にし、支持を得た。
- 江西道廉訪司副使、両浙鹽運司使として紹興の食鹽5000引を減じ、温州の私塩摘発における婦人逮捕慣行を禁じ法制化した。湖南道廉訪使、海道都漕運万戸として天暦の変時の漕運遅延に対し督運者の処罰を回避させる合理的措置を採った。
中央での廉直
- 参議中書省事として、大臣を誣告した飛語事件で古の八議の法を根拠に大臣の権限を守り、また大長公主・平雲南軍・英后への賜銭が均衡を欠くことを覆奏し帝の裁可を得た。
- 中奉大夫参知政事として行省遼陽、江南行台治書侍御史、淮東廉訪使を歴任し、貪墨を許さず宗戚にも阿らなかった。吏部尚書を経て、元統初年江浙行省参知政事として承佃江淮田の廃止を実現した。
- 松江の大姓の献米者の子孫が貧困で賦課に苦しむ事態を救済、江浙大旱の際の田租減免を長寧寺田にも適用させた。嶺海の猺賊討伐で漢人が軍政に関与できない慣例を破り、自ら調兵し実効を上げた。59歳で致仕を願い「功徳なくして富貴を貪ってはならない」と自戒したという。至元元年(1338年)61歳で没した。贈官は中奉大夫・陝西等処行省参知政事、諡は文粛。子の時も文学で名を成し中書参知政事から左丞、翰林学士承旨で致仕した。