元史卷一百八十三 列傳第七十 富珠哩翀

出自と学問

  • 富珠哩翀は字を子翬といい、先祖は隆安の人で金の泰和年間に女直姓氏を定められた。父居謙に従い江西の贛江舟中で生まれた際、鼎の鳴る奇瑞があったという。新喩の蕭克翁(宋参政燧の四世孫)に学び、後に京兆の蕭㪺(キョウ)に師事、姚燧に「学問文章で子翬に匹敵する者はない」と称され娘婿となった。

監察御史としての諫言

  • 大徳11年(1307年)襄陽県儒学教諭に薦められ、汴梁路儒学学正、翰林国史院編修官、河東道廉訪使、陝西行台監察御史を歴任し吐蕃の賑済に建言した。監察御史として英宗の輔導を献策し、中書参議元明善を弾劾した(後に他官に改められた)。
  • 遼陽巡按で弓矢環刀の下賜制度を創設。淮東の廉訪司が刑罰偏重であることを咎め獄具を焼いた。吏出身官の降格制限を緩和させる建言も採用され法制化された。

中書と文宗朝の重用

  • 右司都事として権臣特們徳爾(テムデル)の専横を避け、翰林修撰・左司都事を経て、丞相拜珠(バイジュ)に重用された。陝西の変で連座した官を弁護し、多くを救った。頌詩の献上で帝の称賛を受けた。
  • 泰定帝の上都行幸に扈従した際、拜珠の伝令を確実に実行し「真に謹飭な人物」と評された。国子司業、河南行省左右司郎中を経て、燕南河北道廉訪使として奉使宣撫の不正を暴いた。太常礼儀院での太廟守衛強化案も採用された。
  • 文宗即位の際、明宗を待って摂位すべきと進言し、文宗はこれを容れた。文宗の親祀での礼儀使を務め、天暦大慶詩を献上した。陝西漢中道廉訪使、太禧宗禋院を歴任し、文宗に厚遇された逸話(体格を気遣われた話、談論を評された話)が伝わる。

晩年

  • 集賢直学士兼国子祭酒として学舎の建設費を倹約で捻出し、諸生の教育を整備した。帝師の郊迎の礼で唯一起立して拝礼を辞退し、対等の礼を求めた逸話も伝わる。
  • 文宗崩御後、皇太后聴政のもとで新帝の即位や大赦の是非について助言、禮部尚書として妾腹の子の相続権を守る裁定を下した。元統2年(1334年)江浙行省参知政事、翰林侍講学士を経て至元4年(1338年)60歳で没した。通奉大夫・陝西行省参知政事・護軍を贈られ南陽郡公を追封、諡は文靖。著書は文集60巻。

附伝・子逺(字明道)

  • 富珠哩逺は字を明道といい、父の廕により秘書郎、襄陽県尹に転じたが、賊起こりし際、忠義に奮い財を傾け壮丁千余人を募って拒戦し、戦死した。妻の雷氏も賊に妻となることを拒み、罵倒して殺された。一族はみな被害を受けた。