元史卷一百八十三 列傳第七十 李好文

出自と太常博士時代

  • 李好文は字を惟中といい、大明の東明の人。至治元年(1321年)進士、濬州判官、翰林国史院編修官、国子助教を歴任。泰定4年(1327年)太廟神主盗難事件で神主を木製にすべきと提言、『集礼』編纂の非効率な各省纂修方式を批判し、院内で編纂すべきと主張した。3年で『太常集礼』51巻を完成させた。

監察御史としての明察

  • 監察御史として、至元紀元の再襲用(重紀至元)を「名を襲って実を伴わない」と批判した。河東の李拜拜殺人事件が14年間未決だったのを速やかに裁決し、王傅巌都拉の殺人事件も情状を重く見て死刑を貫いた。
  • 河南浙東両道廉訪司事、国子祭酒、陝西行台治書侍御史、河東道廉訪使を歴任。帝の親祀で「兄が弟を拝すべきか」という礼制上の疑問に「為人後者為之子也」と回答し、以後親祀時の礼儀使を務めるようになった。

皇太子教育と晩年

  • 江南行台治書侍御史から礼部尚書に転じ遼金宋史修纂に加わり、参議中書省事、陝西行台治書侍御史を歴任。四蜀奉使の私憾による廉訪使誣告事件でも風憲の体を守るべきと弁護した。
  • 皇太子の端本堂入学に際し翰林学士兼諭徳を命じられたが「自分の才は太子輔導に堪えない」と辞退を願うも許されず、『端本堂経訓要義』11巻、歴代帝王故事百六篇、『大宝録』『大宝亀鑑』を編纂し皇太子に進献した。
  • 翰林学士承旨・榮禄大夫となり、皇太子に貞観政要等の実践を勧める上書を行った。晩年、光禄大夫・河南行省平章政事として翰林学士承旨一品禄を終身受けた。