元史卷一百八十三 列傳第七十 王思誠

出自と監察御史時代

  • 王思誠は字を致道といい、兗州嵫陽の人。祖父が農を勧める中で儒学を志し、汶陽の曺元用に学んだ。至治元年(1321年)進士、管州判官、国子助教、翰林国史院編修官を歴任。
  • 至正2年(1342年)監察御史として、京畿の旱魃・蝗害を陰陽の不調と論じ、郯王の獄などかつての冤罪の雪冤や祭祀による陰陽調和を上疏した。金鉄冶提举司の囚人の処遇改善(給食再開または速やかな処断)、河運の負担軽減(埧夫・車戸・船戸の欠員補充策)、燕南山東の巡尉制度改善、海防体制の再建なども建言した。

地方官としての名裁き

  • 松州の誣告事件、三河県の刺客誣告事件、豊潤県の少年冤罪事件など、緻密な尋問で数々の冤罪を晴らした。河南山西道廉訪司事として武郷県の贓吏を見破り、黄河三門疏鑿・站設置の実地調査を自ら敢行し険阻を確認して計画を中止させた。
  • 国子司業として学生の騒擾を鎮め、賞罰を明確にした。河間路総管として磁河の水害対策で堤防を修築し、南皮の柳課の不合理な課税を免除した。稲穂の異常(嘉禾)を瑞祥として上奏することを「異を行い美名を求める」として自ら止めた。

紅巾の乱と晩年

  • 禮部尚書、集賢侍講学士兼国子祭酒を歴任し、行省丞相の専断・冗兵・禄秩・行兵馬司廃止・県治正常化・常選設置など「応詔言事」7か条を上言した。至正17年(1357年)紅巾軍が藍田に迫った際、陝西の重臣らが対応に窮する中、察罕特穆爾(チャガンテムル)への援軍要請を進言し実現させ、危機を救った。
  • 「事急なら遅速の差があるだけで死は変わらない」と部下を鎮め、自ら鳳凰山で軍を犒った。田甲の贓罪連座事件で母の連座を拒み、監察御史の封事を上下関係なく開示させる制度改革も行った。同年10月、旅舎で67歳で没した。諡は献粛。