元史卷一百八十二 列傳第六十九 謝端

出自と学問

  • 謝端は字を敬徳といい、蜀の遂寧の人。宋末に江陵に避難して家した。幼くして頴異で5、6歳で詩を吟じ、10歳で賦を作った。宋本と同門で性理の学を修め、江陵で文名を「謝宋」と並称された。
  • 史杠の推薦で姚燧に文を見せ、姚燧が「二十年後に謝端のような人物は得難い」と賞賛した。延祐5年(1318年)進士乙科、潭州路同知湘陰州事を経て国子博士、太常博士。太廟の第八室黄金主盗難事件で連座したが弁明せず罷免を受け入れた。

翰林官と評価

  • 翰林修撰、待制、国子司業を経て翰林直学士に至った。湘陰の任では猾吏や豪民が畏憚し、部使者の巡察でも滞訟を委ねられ裁決に優れた。
  • 慈極升祔・宣聖考妣加封など朝廷の制冊を多く手がけ、文宗明宗寧宗の三朝実録・累朝功臣列伝の編纂で史才を称された。文宗が奎章閣に人材を集めた際「謝端をまだ知らない」と語ったが、文宗崩御で登用に至らなかった。
  • 蘇天爵とともに『正統論』を著し金宋の正統論を論じ、世に広く伝わった。至元6年(1340年)62歳で没した。「元世、蜀士の文名は虞集を第一とし、謝端これに次ぐ」と評された。