元史卷一百八十二 列傳第六十九 宋本

出自と監察御史時代

  • 宋本は字を誠夫といい、大都の人。幼くして頴抜、経史を昼夜読み耽った。父禛の江陵赴任に従い、王奎に性命義理の学を学んだ。至治元年(1321年)廷試で第一人者となり進士及第、翰林修撰を拝命。
  • 泰定元年(1324年)監察御史として、逆賊特克実の一味である樞密副使阿薩爾の弑逆への関与を弾劾、太廟神主の盗難事件では捕縛違期の官の処罰を求め、中書宰執の怠慢を戒めた。

強直な諫言と中書での抗争

  • 蒙古千戸による民女の略取事件を弾劾。特克実の残党や太廟神主盗難の未解決、桓州の盗賊未処断を並べて刑政の失を糾弾し、朝廷を震わせた。
  • 溪洞民招撫策を巡り、逗留して軍功を偽った李某の処罰を主張し王布琳済達の言を退けた。丞相都爾蘇(ドルジ)の専政下、西域の異石献上への酬直(未払い)と憲台奪官者の復権が同時に進むことに「有司の細故が天下の笑い者になる」と痛烈に批判し、朝廷を動揺させた。

晩年と評価

  • 礼部郎中、吏部侍郎・禮部侍郎を経て、天暦元年(1328年)藝文監超太監。至順元年(1330年)奎章閣学士院供奉学士、河東廉訪副使、禮部尚書を歴任。寧宗崩御時、皇太后が興聖宮にあった正旦の朝賀礼について適切な進言をした。
  • 元統元年(1333年)経筵官兼務、陝西行台治書侍御史(不拝)、奎章閣学士院承制学士、集賢直学士兼国子祭酒を歴任し、同2年11月25日、54歳で没した。
  • 高潔で持論堅正、朋友への義に篤く、知貢挙として進士百人を選び第一甲を三人に増員させた。清慎な生活を貫き、貧しい中で20年間学生を養い、死後は縉紳・生徒2000人近くが会葬した。著書に『至治集』40巻。諡は正献。

附伝・弟褧(字顯夫)

  • 宋褧は字を顕夫といい、泰定元年(1324年)進士。校書郎から翰林直学士に至った。監察御史として朝政の建言に努め、文学は兄本と並び称され、世に「二宋」と呼ばれた。諡は文靖。