出自と地方官
- 許有壬は字を可用といい、先祖は潁の人でのち湯陰に徙った。読書一目五行、衡州浄居院の碑文(千言)を一覧で暗誦する才を持った。延祐2年(1315年)進士。同知遼州事として関中の警戒時に城門を閉ざし民を守った。
- 山北廉訪司経歴、吏部主事、江南行台監察御史として広東の貪墨官を弾劾、江西では廉訪使苗好謙の鞭打による冤罪の焼鈔検査を覆審し、勢官豪民を法で処断した。
南坡の変後の弾劾
- 至治3年(1323年)8月、英宗が南坡で暴崩した際、逆賊特克実(テクシ)の一味が上京から府庫を押収しようとする急を、中丞董守庸に告げたが取り合われず、許有壬は董守庸らの阿附を弾劾し、10月に特克実は誅された。
- 泰定帝即位後、権臣特們徳爾(テムデル)の子索諾木の逆謀への関与、王毅・高昉らの冤罪、趙世延の受難などの雪冤を訴え、太子輔導・長官の育成・宮禁の別・兵権の集中防止・武備整備・特們徳爾一族の籍没など「正始十事」を上言し、多くが採用された。
中書要職での建言
- 泰定元年(1324年)詹事院の中議、中書左司員外郎として京畿の飢饉に「不虧民、顧豈虧国」と説き粟40万斛を発した。国子監の積分法廃止論に対し「積分は博学能文の士を得られる」と反論し維持させた。
- 右司郎中、左司郎中を経て、両淮都転運塩司使として鹽法の弊を正した。中書参議、治書侍御史、奎章閣学士院侍書学士を歴任。福達嚕噶齊旺布の淫穢事件を弾劾処断した。
- 皇太后への「太皇太后」尊号加封案に「皇上は皇太后に対し母子の関係であり太皇太后とすれば孫の関係になる、非礼である」と反対したが聴かれなかった。徹爾特穆爾(チェルテムル)の進士科廃止の奏に強く諍い、汝寧の棒胡の乱では反状明白として漢官への疑いを晴らした。
至正年間の直言と晩年
- 古の劓刑復活論、䝉古文字学習の漢人南人禁止論にいずれも反対した。重紀至元初、長蘆韓公溥の武器蔵匿事件に連座を免れたが、忌む者が多く彰徳に帰った。至元6年(1340年)中書参知政事に召還され、至正改元後は太廟親祀・徽政院廃止・改元・冗職淘汰・銭糧節減などを論じ人々に評価された。
- 渾河導水による漕運計画に「湍悍で決壊しやすく、地勢差が大きく徒労に終わる」と反対し、後にその予言が的中した。父熙載が長沙で建てた東岡書院を巡る誣告事件にも遭ったが、翰林学士承旨として復権を重ねた。
- 至正17年(1357年)老病を理由に致仕、24年(1364年)78歳で没した。歴仕7朝50年、権臣の恣睢の時にも忌憚なく直諫を続けた。文章は雄渾閎雋と評され、著書に『至正集』。諡は文忠。