出自と地方官
- 歐陽玄は字を原功といい、瀏陽の人。文忠公歐陽脩と同族。幼くして俊異で、母李氏が『孝経』『論語』『小学』を授け、8歳で暗誦した。10歳で黄冠師に「異日文章冠世の器」と評され、14歳で詞章に習熟した。
- 延祐元年(1314年)尚書で郷試に貢がれ、翌年進士出身、岳州路平江州同知、太平路蕪湖県尹として疑獄を平反し、豪右の非法な駆奴を糾した。武岡県尹として溪洞蛮獠の争いを単騎で赴き鎮め、感服させた。
藝文監と経世大典
- 国子博士・監丞を経て、致和元年(1328年)翰林待制兼国史院編修官として兵乱の中で機務に参画。天暦改元後の郊廟・立后・赦令の文をしばしば撰した。奎章閣学士院・藝文監の設置に伴い藝文少監に選ばれ『経世大典』の纂修に携わった。
- 元統元年(1333年)僉太常礼儀院事、翰林直学士として四朝実録の編修、国子祭酒を兼ねた。重紀至元5年(1339年)足の疾で南帰を願うも許されず、翰林学士に留められた。至正改元(1341年)の朝政改革では科挙復活論に反対する声に強く争った。
三史総裁と晩年
- 遼金宋三史の総裁官として発凡挙例を定め、史官間の論争を筆削で調整、統系・論賛・表奏の多くを自ら執筆した。5年(1345年)翰林学士承旨を拝命したが致仕を願い続け、湖広行中書省右丞致仕の名目で白玉束帯と俸賜を賜った。
- その後も翰林学士承旨に留められ続け、14年(1354年)汝潁の盗乱に招捕策を献じたが用いられなかった。17年(1357年)病身のまま朝廷に肩輿で参内する異例の厚遇を受け、同年12月85歳で崇教里の寓舎で没した。崇仁昭徳推忠守正功臣・大司徒・柱国を贈られ楚国公を追封、諡は文。
- 三任成均・両為祭酒・六入翰林・三拝承旨という異例の経歴を持ち、朝廷の重要な文をほぼ独占的に執筆した。著書に『圭齋文集』。子はなく従子達老が跡を継いだが歐陽玄に先立って没した。