出自と初期官歴
- 張起巖は字を夢臣といい、先祖は章邱の人。五代の乱で禹城に避難、高祖迪は元帥右監軍として済南府事を権し済南に家した。金末、張榮が章邱・鄒平・済陽ら諸県を拠点とし、丙戌の年(1226年)太祖に帰順、迪父子が忠節を尽くした。
- 母邱氏が長蛇の夢を見て起巌を身籠ったという伝説がある。福山県学教諭として蝗害対策に当たり、聴断が明允で民に慕われた。延祐乙卯(延祐2年、1315年)進士首選、同知登州事、集賢修撰、国子博士、国子監丞、翰林待制兼国史院編修官を歴任。
監察御史としての抗争
- 監察御史として、中書参政楊廷玉の墨敗事件で丞相都爾蘇(ドルジ)が同僚の御史台臣を誣告して重罪に処そうとした際、張起巌は新任ながら「台臣の弾劾は職責、これを理由に罪すれば正直な者は口を閉ざす」と抗議し、三度上章して事は解決した。
- 中書右司員外郎、左司郎中兼経筵官、太子右賛善、燕王府司馬、礼部尚書を歴任。文宗の親郊に大礼使として陪従し、その威儀を賞賛された。参議中書省事に進んだ。
寧宗崩御時の対応と三史編纂
- 寧宗崩御後、燕南で妄言による大獄が起きた際、法司が唐律を根拠に慎重論を取ったのに対し、張起巌は「今は嗣君未立で人心が疑心暗鬼、速やかに誅すべき」と主張し都人を安んじた。
- 翰林侍講学士知制誥兼修国史、三朝実録の修纂、江南行台侍御史、燕南廉訪使を歴任。滹沱河の水害対策として堤防を修め、水患を鎮めた。江南行台御史中丞、翰林学士承旨を経て、右丞相伯竒里克布哈(ベルケブハ)を弾劾する動きに毅然と応じた。
- 御史中丞、遼金宋三史の総裁官を歴任し、金源の典故や宋儒道学に精通し、後進の未熟な立言を厚く訂正した。史書完成後65歳で骸骨を乞い、4年後に没した。諡は文穆。
人柄と晩年
- 面貌が紫瓊のように美しく、髯・方頤・清らかな目で、雅量ある君子と評されたが、決議に際しては泰山のごとく動じず、時に面と向かって人を叱ることもあった。歐陽脩に例えられ、安南の使節にも名を知られた。
- 孝友に篤く、貧しい親族を助け、20余の葬儀を執り行い田を購って祭祀に充てた。至元乙酉3月乙亥(1285年)、太史が文昌星の輝きを奏し文運興隆を告げた翌日に生まれ、後の仁宗の誕生と同夜であったことから、廷試で仁宗即位後に科挙第一人者になったのは偶然ではないと評された。著書に『華峰漫藁』『華峰類藁』『金陵集』。子は琳・琛。