出自と地方官
- 黄溍は字を晉卿といい、婺州義烏の人。24ヶ月の懐胎の末に生まれたという伝説がある。幼くして俊異で、延祐2年(1315年)進士。台州寧海丞として塩場の亭戸・漕司隷属民の横暴を法で断罪した。
- 後母と密通した僧による父殺しの冤罪事件で衣冠を変えて陰に調査し実情を明らかにした。強奪未遂の少年を大姓が誣告賞金目当てで拘束していた事件も精査し、10余人を減免した。
- 両浙都転運塩使司石堰西塲監運、諸暨州判官として、海官船の三年更新費用の余剰を私していた不正を正し、余銭を民に還した。偽鈔犯罪の連坐事件、盗賊の獄吏による私縦の事件でも精細な取調べで冤罪を晴らした。
国子博士から晩年へ
- 応奉翰林文字、国子博士として弟子を朋友のように遇し、師道を誇らなかった。礼殿の配位の議論で独り面折して不当な提案を止めた。江浙儒学提挙、67歳で秘書少監致仕を願い、翰林直学士に復した。
- 経筵官を32回務め、帝に忠を称えられた。至順元統以来の朝廷の号や祭祀に関わる制冊を多く手がけた。81歳で没し、中奉大夫・江西等処行中書省参知政事・護軍を贈られ江夏郡公を追封、諡は文献。
- 清白を旨とし、権勢に近づかず、著書に『日損斎槀』23巻・『義烏志』7巻・『筆記』1巻。
附伝・柳貫(字道傳)
- 柳貫は字を道伝といい、浦陽の人で黄溍と同郡。器量凝重端厳で、蘭渓の金履祥に性理の学を受け、六経百氏・兵刑律暦・数術方技・異教外書に広く通じた。江山県儒学教諭を経て翰林待制に至った。
- 虞集・掲傒斯とともに「儒林四傑」と称された。著書に文集40巻・『字系』2巻・『近思録広輯』3巻・『金石竹帛遺文』10巻。73歳で没した。
附伝・吳萊(字立夫)
- 吳萊は字を立夫といい、集賢大学士直方の子。柳貫よりやや後輩。7歳で文を成し、書を一読で暗誦する神童ぶりで人を驚かせた。延祐7年(1320年)春秋で挙げられたが会試不利、深山に退いて著述に励んだ。
- 著書に『尚書標説』6巻・『春秋世変図』2巻・『春秋伝授譜』1巻・『古職方録』8巻・『孟子弟子列伝』2巻・『楚漢正声』2巻・『楽府類編』100巻・『唐律删要』30巻・文集60巻ほか多数。
- 文論に優れ「文を作るは用兵の如し」との論を残した。柳貫は吳萊を絶世の才と称え、黄溍も「今世の士にあらず」と評した。御史の薦めで長薌書院山長に任じられる前、44歳で没した。私諡は淵頴先生。