元史卷一百八十一 列傳第六十八 虞集

出自と幼少期

  • 虞集は字を伯生といい、宋の丞相虞允文の5世孫。曾祖剛簡は利州路提刑として魏了翁らと蜀で講学し易・詩・書・論語の説を著した。父の汲は宋滅亡後臨川崇仁に僑居し、呉澄と交友した。
  • 乙亥の年(1275年)父に従い嶺外に逃れ、母の楊氏が『論語』『孟子』『左氏伝』欧蘇の文を口授した。長沙に還って初めて刻本を得た時にはすでに諸経の大義に通じていた。呉澄に師事し、董士選が家塾に招いた。

国子監での師道

  • 大徳初年、大都路儒学教授として召され、国子助教として師道を自任した。監祭で失礼を犯した劉生の処罰を巡り大臣の請いにも屈せず、仁宗の意も跳ねのけて処罰を貫いた。
  • 仁宗即位後、祭酒を拝命し呉澄とともに監学の刷新を図ったが異論により呉澄は去り虞集も病で退いた。太常博士として丞相拜珠(バイジュ)に礼器祭義を説き感服させた。科挙による治平のみを頼む議論に対し、師道の確立こそ根本と説き、学校教育論を上議した。

東宮制度と農地・海防の建言

  • 至順以前、翰林待制兼国史院編修官として、仁宗が「儒者は皆用いられたが虞伯生だけがまだ顕擢されていない」と語ったが崩御し用いられなかった。英宗即位後の丞相拜珠は虞集を蜀・江西に探させたが会えず、江南で墓参中に召命が届いた。
  • 泰定初年(1324年)礼部の考試で経伝注釈の多元性を守るべきと説いた。国子司業、秘書少監を経て、集賢侍読学士王結とともに経筵に侍講した。
  • 京師が東南からの運糧に依存する弊を論じ、東方の海浜を囲田で開発し民兵制度と結びつける海防・開墾策を提案したが、賄賂を懸念する反対で実現しなかった。後の海口万戸の設置はこの案を大略踏襲した。

奎章閣学士としての諫言

  • 文宗は潜邸の頃から虞集を知り、即位後奎章閣侍書学士に任じた。関中の大飢饉に際し、承平による士気の緩みを説き、有仁術の官を遣わし郡県を整理する漸進的な救済策を進言し帝は称賛したが、外郡希望と誤解した左右の讒言で議は罷まれた。
  • 兼職三年以上禁止の勅に対し国子祭酒に留まった。策試の制策で親親・体羣臣・同風俗・協和万邦を問う案は帝に用いられず、燕居の無益を憂う同僚とともに辞職を願ったが、帝は「祖宗は生知の明があったが朕は乏しい、故に奎章閣を立て卿らの学を頼る」と慰留した。
  • 『経世大典』の総裁を趙世延と分担し、8年をかけて800帙を完成させた。目疾を理由に辞そうとしたが馬祖常への譲位も許されず、御史中丞趙世安の外任の請いにも「一虞伯生を汝らは容れられぬのか」と帝は怒り慰留した。

清廉と晩年

  • 帝王の道・治乱興亡を論じて感悟を促し、時に人を介さぬ直諫を行った。乳母の夫の営国公封の制を貴近の讒に惑わされず断固退けた逸話や、龔伯璲の起用要請を人物眼で拒んだ逸話が伝わる。
  • 文宗崩御後の政変で御史の言を機に病と称し帰郷。元統元年(1333年)召還されるも病で赴かず、至正8年(1348年)77歳で没した。通奉大夫・江西行中書省参知政事・護軍を贈られ仁寿郡公を追封。
  • 孝友篤く、弟槃の孤児を我が子同然に養育し、兄采の負債を代弁済するなど恩義に厚く、碑文執筆にも金銭に恬淡であった。学は本源を究め、南州集の編纂は未完のまま没した。文万篇のうち残るは十二三。子四人、安民は吉州路安福州同知。

附伝・弟槃(字仲常)

  • 虞槃は字を仲常といい、延祐5年(1318年)進士。吉安永豐丞、湘郷州判官として、殺人事件で上下が阿従する中、独り署名を拒み、獄をただした。
  • 巫者による扇動事件で神託を装った盗賊党を見破り、大乱を未然に防いだ。柳宗元の『非国語』の是非を論じるなど春秋学に精通し、僧の同席を避けるほど厳格な人柄で兄の虞集も憚った。嘉魚県尹に任じられる前に没した。

附伝・范梈(字亨父、一字徳機)

  • 范梈は字を亨父、一字を徳機といい、清江の人。家貧しく早くに父を失い、母熊氏に育てられた。京師で頭角を現し、董士選の家塾に招かれ、翰林院編修官に薦められた。
  • 海南海北道廉訪司照磨として辺境を巡歴し興学・雪冤に努めた。福建閩海道知事として繍工の弊を歌に詠み革めさせた。天暦2年(1329年)湖南嶺北道廉訪司経歴を養親のため辞し、翌年母の喪に、同年10月本人も59歳で没した。廉潔な人柄で、呉澄が「特立独行の士」として東漢の諸君子に比した墓碑を記した。