元史卷一百八十 列傳第六十七 耶律希亮

出自と幼少期

  • 耶律希亮は字を明甫といい、耶律楚材の孫、鑄(チュ)の子。六皇后の命で托果斯(トゴス)の地で生まれた。憲宗が父鑄に燕での銭糧の調査を命じた際、鑄は「先祖代々儒書を読み、儒生はみな中土にいる、諸子を燕に連れて受業させたい」と願い出て許された。耶律希亮は北平の趙衍に師事し、9歳で既に詩を賦した。
  • 憲宗が和琳(カラコルム)に還った丙辰の年(1256年)、希亮は独り燕に留まった。戊午の年(1258年)憲宗が六盤山にあった際に希亮も行在に赴き、父の南伐に従軍。翌年憲宗が蜀で崩御し、輜重を率いて北帰した。

額哷布格の乱と流離

  • 中統元年(1260年)世祖即位に対し額哷布格(アリクブケ)が反し、父の鑄を招くも従わず妻子を棄てて世祖に帰順した。額哷布格側の主将琿塔哈(クンタカ)はこれに怒り、希亮母子を監視下に置いて自軍に随行させた。
  • 額哷布格の大将阿勒達爾(アルダル)が父の行方を詰問した際、希亮は知らぬと答え通した。阿勒達爾らが敗死した後、希亮母子は残卒に捕らえられて肅州に至り、哈喇布哈(カラブカ)が父の恩を思い縛を解いた。
  • 沙州北川、天山を越えて北庭都護府に至り、翌年瑪納斯河を渡り葉羙里城(アルマリク)に至った。定宗の末子大名王に助けられ、額哷布格の兵にたびたび駆り立てられ、千五百里以上を転々とした。希亮は単騎で二百余里を走り破哈喇布哈の軍を撃破するなどの戦にも従った。

世祖への帰参

  • 額哷布格の再度の侵攻に際し従軍。母は乱を避けていたが、父鑄が世祖に「妻子は北辺にある」と訴えていたため、世祖は璽書を遣わして希亮を召し、庫克新城を経て大漠を渡って帰還した。
  • 世祖の大安閣で辺事と艱苦の状を陳べ、鈔千錠・金帯・幣帛30を賜り、実古爾必且齊(ケシクの一員)を命じられた。至元8年(1271年)奉訓大夫・符宝郎。至元12年(1275年)宋平定後、帝は希亮に降将(夏貴・呂文煥・范文虎・陳奕ら)に日本征伐の可否を問わせた。降将らは可とし、希亮は「宋との三百年の戦を終えたばかり、数年待つべき」と奏し、世祖はこれを容れた。

太府監の冤罪救済と諫言

  • 至元13年、太府監令史盧贄(後述の李秀に類似の冤罪事件)が平陽の布の規格を巡り誣告され、帝が斬を命じたが、希亮は道で盧贄の訴えを聞き、実情を奏して董文忠に讞じさせ釈放された。
  • 至元14年(1277年)嘉議大夫・礼部尚書、のち吏部尚書。世祖が「漢人が鈔六文を盗んだ者は殺す」という誤り伝えられた令の存在を知り、希亮は「令が出た以上は誤りを明らかにして民心を安んじるべき」と進言し、大都に赴いて中書に旨を諭した。
  • 至元17年(1280年)足病により致仕し、㶟陽に20余年隠棲した。至大3年(1310年)武宗により翰林学士承旨に召され、後に知制誥兼修国史として世祖の嘉言善行を編纂、英宗はこれを禁中に置いた。泰定4年(1327年)81歳で没した。至孝で知られ、蔵していた祖考の画像を四時に祀ったという。著書に『愫軒集』30巻。没後、資善大夫・集賢学士・上護軍を贈られ漆水郡公を追封、諡は忠嘉。