出自と初期官歴
- 王約は字を彦博といい、先祖は汴の人で、祖父通の代に真定に移った。中丞魏初に従学し、経史を博覧し文辞を修めた。
- 至元13年(1276年)翰林学士王磐の推薦で従事となり、和爾和遜(ホルホソン)が司徒開府として翰林国史院編修官兼司徒府掾に奏授。のち中書掾を経て礼部主事となった。
- 至元24年(1287年)監察御史となり、儲君の擁立と修史を建言。丞相僧格が参政郭佑を恨んでいた際、王約は郭佑の冤を直訴した。成都塩運使王鼎の不法を按治し罷免させた。
- 御史台都事に転じた後、南台侍御史程文海が僧格を弾劾した際、僧格の怒りにより王約も連座で処罰されかけたが帝は聞き入れなかった。
成宗朝の建言と高麗問題
- 隴西の地の遠さを理由に陝西に行台を立てるよう請い、詔許された。河間の饑民を賑済し、多くを活かした。
- 至元31年(1294年)中書右司員外郎に遷り、成宗即位後の4月、京師の負担軽減・税の減免・狩猟禁止・逋負の蠲免・窮民の救済・冗役の停止・鷹房の禁止・風憲の振興など22事を建言した。
- 高麗王昛(チュン)が老いて国を子謜に譲ろうとした際、讒言により謜が入朝したまま留められる事態が生じたが、王約が使者として赴き父子の道を説き、昛を感泣させて謜の帰国を実現させた。関係者の罪を調べ、流刑・杖刑・黜官などで処断し、非道な水駅や耽羅の貢を免じた。
- 太常少卿に除せられ、宗正・御史とともに京師の獄を審理し、266人を裁決、死罪72人、無罪86人を釈放した。倡女に落とされた良家の女性10人を杖流とし、元旦に帯刀で殿庭に乱入した者80人を処断、闘殴殺人の減刑を法制化した。
仁宗の東宮を輔佐
- 富寧庫の失金事件で番直の宿衛者の盗みを疑い実際に発覚させた。通州倉米の湿損を検分し、必要なもの以外は釈放した。宗王兄弟の争いを調べ、故あって弟を釈放した。
- 礼部尚書として丁憂の制、旌表の恩を定め、都城の煤炭税を免じた。京民王氏の遺腹子の相続争いを審理し、姉の欲得の疑いを見抜いて姪の相続を守った。
- 至大2年(1309年)正月、武宗の尊号・皇后冊立の典礼儀注を総轄。仁宗が東宮にあったとき、王約を太子詹事丞に抜擢し、五台山への行幸の長期滞在を諌めて即日還らせた。
- 安西王の乱後の封国復活論を仁宗が問うた際、封じ直すことの是非を諌め、議を止めさせた。太子副詹事に進み、節飲を諌める章を奏し嘉納された。
- 左衛率府の統帥について同僚が軍官の署任を望んだ際、「詹事は東宮の官で樞密の事に与るべきでない」と反対した。右衛率府の新設についても慎重を求めた。安西の兵器を取り寄せる命に対しては、遠方への文書往来による民の動揺を懸念して諫めた。福建の繍工童男女の徴発を諫め、事は止まった。
- 陝西分地の五事を扱う命に対しては時期尚早として応じず、太子少傅に翰林学士李謙を薦め、丞相淮安忠武王巴延の祠を杭に立てることを進言、いずれも聴かれた。
河南行省と晩年
- 延祐4年(1317年)3月、仁宗が正位した際、正名定分の議を建て大明殿での即位を実現させた。中書は王約を陝西行省参知政事に擬したが帝が怒り、特に河南行省右丞を拝命させた。
- 河南で無主田として奪われた田糧府の民地を復業させ、至大・至元鈔の混用による負担を丞相布琳済達(ブリンジダ)に説き実行させた。南陽の富珠哩翀(フジュリチュン)を見出し登用した。
- 皇慶改元の年、河南行省丞相布琳済達の勲旧を理由に召還・封河南王を建議、封贈・服色・科挙の令を建議し法制化した。竇履の遺腹子の宗籍回復も奏した。
- 延祐2年(1315年)丞相特們徳爾(テムデル)の専政のもと燕南山東道を巡行し、母を殺すと訴えられた男の事情を酌み杖百で放免、冠州の讒訴事件も見破って救った。
- 樞密副使に転じ、至治元年(1321年)英宗即位後、特們徳爾が再相した際は辞して出仕せず、致仕。至治3年(1323年)丞相拜珠(バイジュ)が老臣を尊礼し王約を復官させた。
- 高麗を三韓省として直轄化する議を止め、遼陽・京師の遠さ・風俗の違いを理由に旧制維持を主張し、丞相もこれを称賛して議は行われなかった。高麗人はこれに感謝し王約の像を祠に祀った。
- 泰定元年(1324年)廷試を主宰し進士を増員。天暦元年(1328年)文宗即位に際し入賀、77歳。至順4年(1333年)2月己酉、82歳で没した。皇太后は使者を遣わして弔い、中書省以下から賻贈があった。著書に『史論』30巻・『高麗志』4巻・『潜丘藁』30巻。子の思誠は奉議大夫秘書監著作郎。