出自と直言の御史
- 劉敏中は字を端甫といい、済南章邱の人。幼くして卓異で、13歳のとき父景石に「昔の賢者は学に足りて知を求めず、功に豊かで自ら衒わない」と語り、父はこれを奇とした。郷先生杜仁傑もその文を称賛した。
- 至元11年(1274年)中書掾より兵部主事に抜擢され、監察御史を拝命。権臣僧格(サンガ)の専横を弾劾したが取り上げられず、辞職して帰郷した。
- 後に御史台都事に起用され、同僚の王約が弾劾されて去った際、自らも疾と称して門を閉ざし、「約に罪なくば自分も出仕せず、罪あれば同僚として諫止できなかった責がある」と述べた。
地方官と晩年
- 燕南粛政廉訪副使、国子司業、翰林直学士兼国子祭酒を歴任。大徳7年(1303年)宣撫使として遼東・山北の諸郡を巡行し、権貴を恃んで暴横する守令を法で処断、錦州の水害には倉廩を発して賑済した。
- 東平路総管、陝西行台治書侍御史を経て、大徳9年(1305年)集賢学士・商議中書省事となり、十事を上疏(朝綱を整え、庶政を省き、善良を進め、姦蠹を剔り、公道を顕し、私門を杜ぎ、恩沢を広め、鈔法を実にし、武備を厳にし、封贈を挙げる)した。
- 成宗崩御の際、姦臣が邪謀を賛したのに対し礼をもって力争した。武宗即位後、上京に召され集賢学士・皇太子賛善などを歴任、河南行省参知政事、治書侍御史、淮西粛政廉訪使、山東宣慰使を経て翰林学士承旨となった。
- 災異を弭ぐ道を議した際に七事を上疏し帝に嘉納された。病により帰郷。清廉を守り、著書に『中菴集』25巻がある。延祐5年(1318年)76歳で没し、光禄大夫・柱国を贈られ斉国公を追封、諡は文簡。