元史卷一百七十八 列傳第六十五 梁曽

出自と初期の官歴

  • 梁曽は字を貢父といい、燕の人。祖父守正、父徳はともに梁曽の栄達により安定郡公を贈られた。
  • 少くして学を好み、日に数千言を記憶した。中統4年(1263年)、翰林学士承旨王鶚の推薦で中書左三部令史に辟せられ、のち中書省掾に転じた。
  • 至元17年(1280年)、雲南諸路行省都事に任官。のち員外郎に陞り、同知広南西道左右両江宣撫司事に転じた。
  • 南陽の知府となり、唐・鄧の二属州が襄陽府に奪われていたのを、図経を調べ国制に照らして訴え、旧に復させた。南陽は宋末以来、桑柘が未成のまま歳々絹を賦課され民が苦しんでいたので、布での折納を請い、民の便とした。

安南への使節

  • 至元17年、朝廷は安南の世子陳日烜が入朝しないことを問題視し、梁曽を使者に選んだ。三珠金虎符・貂裘を賜り、兵部尚書に進み、礼部尚書柴椿とともに安南へ赴いた。
  • 翌年、陳日烜は叔父の遺愛を遣わして表を奉らせ梁曽に従わせた。帝は遺愛を安南国王に封じ、幣帛を賜って帰した。
  • 至元21年(1284年)湖南宣慰司副使に、29年(1292年)淮西宣慰司副使に転じた後、親の老いを理由に辞したが、再び安南への使節を命じられ、吏部尚書・三珠金虎符を賜った。副使は礼部郎中陳孚。
  • 至元30年(1293年)正月、安南に至る。三つの門のうち中央の陽明門を通らず日新門から入れようとした陪臣に梁曽は激怒し、正門から入ることを主張して押し通した。世子陳日燇(原文どおり)は世子と面会し礼を尽くすよう求め、書を三度往復して天子の威徳を説き、これに感服させた。
  • 陳日燇は国相陶子奇らを梁曽に従わせ闕に詣でて罪を請わせ、万寿頌・金冊表章・方物を献上させた。黄金・器幣・奇物を梁曽に贐として贈ったが、梁曽は受けず陶子奇に委ねた。
  • 帰京後、帝は梁曽の功を大いに喜び、地上に座らせるほどの厚遇を示した。右丞アリがこれに不満を漏らすと、帝は「梁曽は両度外国に使いして口舌で兵戈を止めた」と怒って擁護した。
  • 象を献上した際、梁曽が引くと象は従順に従い、帝は梁曽を「福人」と称え、恐れを問うたところ「君命に違えぬのみ」と答え、帝は称賛した。
  • 安南から賄賂を受けたと讒言する者があったが、梁曽は「安南の黄金器幣は受けず陶子奇に委ねた」と釈明し、帝は白金・金幣を賜った。

内地官歴と晩年

  • 淮安路総管、河南行省の疑獄処理などを歴任。大徳元年(1297年)杭州路総管となり、復籍の戸口5万2400戸を得、夜間の獄囚引き回しの禁令などを制定した。
  • 大徳4年(1300年)に父の喪に服し、以後丁憂の制を守ることを上言した。潭州路総管、両浙都転運塩使、雲南行省参知政事などを歴任し、三珠金虎符を賜った。
  • 皇慶元年(1312年)仁宗により昭文館大学士・資徳大夫に任じられ、集賢侍講学士として国政の議に加わった。延祐元年(1314年)中岳などへの代祀を命じられ、汴梁に至って病により職を退き、淮南に寓居した。
  • 至治2年(1322年)81歳で没した。没する10日前、居所に大星が墜ち光が地を照らしたという。