出自と太常での慎重さ
- 張昇、字は伯高、定州の出で後に平州に徙る。至元29年(1292年)翰林国史院編修官として世祖実録の編纂に参与。成宗崩御時、徽号奉呈の議に対し「宗廟には嗣皇帝の名を記さねばならない」と指摘し議を止めさせた。武宗即位時の躬祀礼の議にも古典を引いて対応した。至大初年、太常寺を太常礼儀院に改める際、判官となった。
地方官での明察
- 汝寧府知事として、禁書を焼却した事件で「妄言を誣民に流布させない」との判断を貫き、廷議の疑いも無実と証明された。日食の予兆を煽る流言を「訛言は久しく放置すれば自ら止む」と退けた。紹興路総管として越の大饑饉での不正な塩課代納を正し、海運の布嚢供出の不当な負担を「麻は越の産でない」として罷めさせた。
晩年の各地廉訪使
- 湖北道廉訪使、江南行台治書侍御史、樞密院判官を歴任。至治2年(1322年)河東道廉訪使、翌年淮西道廉訪使。泰定2年(1325年)陝西行省参知政事、遼東道廉訪使として永平の水害に糧十八万石・鈔五万緡の賑済を実現。天暦初年(1328年)山東道廉訪使として「完城は民を棄てることになる」と築城要求を退けて民心を安んじた。
- 至順2年(1331年)致仕後、元統元年(1333年)順帝の求めに応じ時政十事を上奏。至正元年(1341年)卒、享年81。資徳大夫河南等処行中書省左丞を贈られ、諡は文憲。