元史卷一百七十七 列傳第六十四 吳元珪

出自と軍政での実務

  • 吳元珪、字は君璋、広平の人。父の鼎は燕南提刑按察副使。至元14年(1277年)世祖に召見され後衛経歴、金符を佩びる。至元17年(1280年)御薬の急送を一昼夜で成し遂げ帝に才を認められた。江南平定後の官属設置・俸禄・医薬・学校・屯田を多く建言した。至元26年(1289年)参議樞密院事として宮城修理の兵役の弊を陳べ、留守段天祐と共に武衛を立てて管轄させた。

鎮直と晩年前半

  • 至元28年(1291年)礼部侍郎、至元31年(1294年)参議中書省事、大徳元年(1297年)吏部尚書として郷里偏重の銓選の弊を戒めた。大徳3年(1299年)燕南で貪吏を弾劾、工部尚書として春秋の義に基づく民力節約を説いた。大徳6年(1302年)江浙行省参知政事として朱清・張瑄事件に連座せず清廉を保った。

武宗・仁宗・英宗朝

  • 武宗即位後、樞密副使として惜人力・厳選挙・節財用・定律令・謹賞罰・建科挙・課農桑・汰冗員などの時政を議した。海都の乱で流離した民の救済を上奏し実現させた。至大年間平章政事、仁宗即位後も時政議に参与。皇慶元年(1312年)江浙行省左丞として、江南の田を再検地する動きに対し「動揺すれば害は少なくない」と反対し実施を月余り止めた。
  • 延祐元年(1314年)甘粛行省左丞、召還後は遼陽宣撫、樞密副使に復帰。江淮田土の増徴経理を批判し「変が生じかねない」と諫めた。至治元年(1321年)特穆爾布哈と共に軍民の政十余事を上奏し実施された。致仕後、泰定3年(1326年)卒。泰定元年(1324年)光禄大夫河南等処行省平章政事柱国を贈られ趙国公に追封、諡は忠簡。