阿哈瑪特事件での才覚
- 張思明、字は士瞻、獲嘉の出で後に輝州に徙る。侍儀司舎人から御史台掾、尚書省掾。阿哈瑪特死後の遺孽粛清時、右丞何栄祖・左丞馬紹の贓物の帳簿を昏達まで読み上げ、帝はその声を聞いて「侍儀舎人の声に似ている」と認識、掾に抜擢した。大都路治中への抜擢を固辞し、湖広行省都事に改まった。
地方官と鹽政
- 元貞元年(1295年)中書省検校、大徳初年左司都事として西域秤法を「惑衆」として却下。海道運糧万戸府の受除拒否問題に対応する制度を整備。至大3年(1310年)両浙塩運使、皇慶元年(1312年)再任時、課額の増加要求に対し「贏縮は一定でない、額を増やせば後世の害になる」と拒否した。
仁宗・英宗朝での剛直
- 皇慶2年(1313年)戸部尚書、延祐年間参議中書省事・中書参知政事。浮屠妙総統の弟の五品官登用を仁宗の勅命にもかかわらず拒み、帝の怒りを買ったが最終的に「一度限り」の条件で認めさせた。工部尚書に左遷されても職務に励み、宣政院副使・西京宣慰使を歴任。左丞相哈扎爾の辞職に際し「私の代わりに張思明を」と推薦され、中書参知政事に抜擢された。
英宗朝の危機と晩年
- 英宗の代、右丞相特们徳尔が大臣を誅殺する中「新君未立の時に丞相が殺戮を恣にすれば、天下は不臣の心ありと疑う」と諫め、特们徳尔を悟らせた。監察御史観音保・索約勒哈・陶黙色らが夀安山寺造営を強諫して殺害された事件では、成珪・李謙亨の刑を軽減させた。特们徳尔・拜珠の朋党争いに巻き込まれ、蒙古子女の口糧不支給を誣告され罷免、6年間門を閉ざした。
- 天暦元年(1328年)江浙行中書省左丞に復帰、陝西の饑饉に江浙塩運司の課税収入を先渡しする決断を下した。天暦2年(1329年)中書左丞として召還されたが老いを理由に辞去。重紀至元3年(1337年)卒、享年78。蔵書3万7千余巻を有し律に精通、謝仲和・曹鼎新と共に「三絶」と称された。推忠翊治守義功臣依前中書左丞上護軍を贈られ清河郡公に追封、諡は貞敏。