元史卷一百七十六 列傳第六十三 秦起宗
出自と機知
- 秦起宗、字は元卿、先祖は上党の人で後に広平深水県に徙る。金末の兵乱期、祖父が洞に匿った里人百人を救った故事から「秦父生我」と呼ばれた。栁を削って字を学び、蒙古学を修めて武衛訳史となり御史中丞塔齊爾に才を愛された。仁宗即位後、太子家令司典簿官として東宮官属の職掌を明確化し、南台御史として建康の水害の実否を微行で確かめた。
八番遠征への諫言と晩年
- 文宗初立時、威順王の八番出征に際し、武昌の重鎮を離れるべきでないと力止した。八番師還後、帝は「秦元卿がいなければ失計であった」と評し、以後「起宗」の名を帝自ら定めた。中台御史として中丞和尚の不正買収を弾劾し、太子擁立に伴う赦でも「和尚を罰しなければ国法が立たない」と主張を貫いた。閩憲布扎爾の父妾強奪事件も弾劾し嶺南に流させた。撫州路総管として供帳の豪奢を戒め、質素倹約を旨とした。兵部尚書で致仕、翌年卒、諡は昭肅。子は鈞・銓・鐸・鏞の四人。