出自と若年の武勇
- 張珪、字は公端、張弘範の子。弓を得意とし、父に従って狩猟中に虎を射止めた。至元16年(1279年)弘範が広海を平定した際、宋の礼部侍郎鄧光薦が入水自殺しようとしたのを救い、珪を師事させた。十六歳で管軍万戸を摂し、十七歳で正式に昭勇大将軍管軍万戸を拝命して建康に鎮した。弘範の死後、世祖に召見され、老練な聶禎の補佐を願い出て許された。
地方鎮圧と樞密副使への抜擢
- 至元19年(1282年)太平の群盗討伐で、民の豚を殺し主人を傷つけた兵卒を斬って軍紀を正し、諸盗を平定した。至元29年(1292年)入朝時、行枢密院廃止論に反対し、樞密副使に任じられた。太傅伊嚕勒諾延が「珪は若い、まず僉書で試すべき」と進言したが、帝は「金・宋を滅ぼすため三代にわたり死力を尽くした家柄だ、惜しむ理由はない」と鎮国上将軍江淮行枢密副使に任じた。
浙西廉訪使としての糾弾と讒言
- 大徳3年(1299年)川陝を巡行して民の疾苦を問い、冗官を罷免し貪吏を黜けた。江南行御史台侍御史・浙西粛政廉訪使として郡長吏以下三十余人を弾劾し贓銭巨万を徴収したが、監司の不正を摘発しようとしたところ、行省の内応者が近臣に賄賂を贈り「珪に厭勝の術がある」と誣告させた。帝が調査させると行省の官吏・塩官の欺罔が発覚し、珪の無実が証明された。
武宗・仁宗擁立への関与
- 僉樞密院事・江南行台御史中丞として天人の際・災異の故を極言する上疏を行ったが、大官の不法や近侍の惑わしを弾劾した部分は取り上げられなかった。至大4年(1311年)武宗崩御に際し、仁宗が隆福宮での即位の礼を覆し大明殿で即位すべきと進言し、実現させた。皇慶元年(1312年)樞密副使徽政院使、延祐2年(1315年)中書平章政事として煩雑な政務の整理を建言。
英宗朝の受難
- 皇太后が特们徳尔を太師に、布色を参知行省政事に任じようとした際、珪は「非その人」と諫めたため、皇太后の勅を伝えた実勒们に杖罰を受け重傷を負った。至治2年(1322年)英宗に召見され「四世の旧臣、政を委ねたい」と言われたが辞退。特们徳尔が私怨で平章蕭拜珠・御史中丞楊多爾濟らを殺害した際、珪は災異の議論で彼らの冤罪を晴らすべきと抗言した。
南坡の変後の大上疏
- 泰定元年(1324年)6月、災異を機に百官が集議した際、珪は左右司員外郎宋文瓉と共に上都に赴き、長大な上疏を奏した。その要旨は次の通り。
- 宰相の選任は国の安危を左右する。唐の姚崇・宋璟の治世と李林甫・楊国忠の乱を例に、特们徳尔の姦悪な専政と、その党与実勒们・伊埒薩巴らの罪、及び逆賊特克実の弑逆への連座を糾弾し、特们徳尔の家産没収と子孫の遠竄を求めた。
- 特克実弑逆事件の党与(諸王暗達布哈・博羅伊嚕特穆爾・竒爾布哈・烏魯斯布哈ら)は既に流竄されたが、遼王托克托が親王・妃・主百余人を殺害しその財産を奪った罪は赦されるべきでないとして、爵位・封土の削奪を求めた。
- 武備卿済蘭・前太尉布哈が権勢を恃み鄭国宝の妻を強奪した事件、成宗以来横行する中書省による宝物買い上げの弊害(沙布鼎らによる不正な高値取引)、仁宗皇后神主の盗難事件と警備の怠慢、西山寺建立による軍民の負担、蕭拜珠・楊多爾濟らの冤罪と没収財産の返還問題を挙げた。
- 額森特穆爾らによる女性への乱暴事件、囚人の疑獄審理、辺鎮の疲弊、広海鎮戍卒への恤み、東筦・恵州の珠採取による民の被害(大徳元年以来、蜑戸七百余家に課された過酷な採珠役)、非命に死んだ布哈・布顔呼喇勒・托果斯・徐元素らの名誉回復を求めた。
- 冗官の増設(至元30年以後の改陞創設)の停止、崇祥寿福院・徽政院断事官・江淮財賦の署の削減、仏事・醮祠の濫費(至元30年当時102件から数倍に増加)の抑制と功徳使司の廃止、宿衛・宦女への支給の世祖時の基準への復帰、庫特斉による馬駝牧養での民の被害の是正を求めた。
- 賛布陵盗への遠征の非(至治3年、1323年、使臣殺害から一年に及ぶ討伐で国費と兵卒を浪費)、官田の諸王・公主・駙馬・百官・寺観への分与による国庫の逼迫と農民の困窮、淮北の重複課税、僧道の田買収に伴う徭役逃れ、僧道の妻帯の弊風、無功の濫賞の停止などを列挙した。
- 珪はこれらを「弑逆未討・姦悪未除・忠憤未雪・冤枉未理・政令不信・賞罰不公・賦役不均・財用不節」とまとめ、天意に応えるための是正を求めたが、帝は結局これを聴かなかった。
晩年
- なおも日食・月食に応じた修徳・修刑を説いたが帝は従わず、まもなく珪は病が篤くなった。翰林学士承旨知制誥兼修国史・蔡国公として経筵事を掌り、呉澄らを翰林学士に薦めた。泰定2年(1325年)帰郷を許され、泰定3年(1326年)春に召還された際、真定・保定・河間の饑饉を訴え帝を動かした。泰定4年(1327年)12月薨去。自ら澹菴子と号した。子6人。