元史卷一百七十三 列傳第六十 崔彧

出自と剛直な弾劾

  • 崔彧、字は文卿、小字拜特穆爾、弘州の人。剛直で敢言をもって知られた。至元16年(1279年)江南で藝術に通じた人材を探した。翌年、呼図克岱爾が亡宋の財貨を求めて百姓を煩わせたことを報告した。至元19年(1282年)集賢侍読学士として、阿哈瑪特の残党の一掃を求め、参知政事阿里の子アサルの父職襲用に反対し、郝禎の剖棺戮屍を請うて実現させた。

十八事の上疏

  • 至元20年(1283年)刑部尚書から御史中丞に転じ、御史の選抜は台自ら行うべきと主張。至元20年(1283年)刑部尚書として時政十八事を上疏した。主な内容は、言路の拡大、阿哈瑪特党与の処分、枢密院の賞罰の公正化、翰苑の名儒登用、郝禎ら残党の処罰、官僚の教育、起居注の充実、律令の制定、冗官の整理、官吏の俸禄増加と民への転嫁禁止、江南避賦逃亡民の招集、良臣の抜擢、簿録財物の国庫繰入、大都留守司の整理、中書省左丞の増置、地方行省の丞相不設置、阿爾哈雅の権勢抑制、銓選の透明化など多岐にわたり、多くが採用された。また日本遠征の一時停止や水手拘刷の弊害も指摘した。

御史台での長年の活躍

  • 至元21年(1284年)盧世栄の宰相不適格を弾劾して忤旨で罷免され、至元23年(1286年)集賢大学士・甘粛行省右丞を経て中書右丞。僧格政権の不正を厳しく糾弾し、党与の一掃・受賄者の処罰・冗官の整理・徭役の均一化を提言。至元28年(1291年)御史中丞として太医院使劉岳臣の登用、建寧路総管馬謀の非法殺人事件、監察御史周祚の冤罪回復などを次々と処理した。
  • 至元29年(1292年)以降も御史大夫伊実特穆爾らと共に、四方からの陳情への対応方針、尼雅斯拉鼎黙哷らの党与の処罰、璽書の確認による使臣の詐称防止、按察司の再興、鹽運司の不正糾明など多数の建言を行い、いずれも採用された。

成宗朝と晩年

  • 至元31年(1294年)成宗即位に際し、崔彧は故臣の家から玉璽を得て皇后に献上し、成宗に伝えられた。憲台に長く在任したため辞任を願い出たが慰留された。大徳元年(1297年)台憲の諸事を条陳し、御史台にあって守正不阿を貫いたため人に妬まれ、監察御史の讒言もあったが成宗は取り合わなかった。大徳2年(1298年)加平章政事、大徳9年(1305年)9月卒。至大元年(1308年)太傅開府儀同三司を贈られ鄭国公に追封、諡は忠粛。