元史卷一百七十三 列傳第六十 葉李

出自と賈似道弾劾

  • 葉李、字は太白、一字舜玉、杭州の人。宋の景定5年(1264年)彗星出現を機に、賈似道の公田法・関子法の弊害を糺す上書を同舎生83人と共に行った。賈似道の怒りを買い誣告され漳州に流されたが、似道失脚後に自由の身となった。宋滅亡後は富春山に隠棲した。

元朝への出仕

  • 至元14年(1277年)姜衛の推薦で名が世祖に伝わり、浙西道儒学提挙を授けられた。至元23年(1286年)程文海の江南捜賢に応じて入朝し、世祖に古今の帝王の得失を陳べて重用された。各道儒学提挙の存続や儒戸徭役の蠲免を建言し許された。
  • 納延の乱の際は兵法を献策して勝利に貢献。至元24年(1287年)御史中丞兼商議中書省事を固辞したが、実封奏事の制度を建言して認められた。尚書省設立時に尚書左丞となり、大小車を賜り、至元鈔法・太学設立にも関与した。

晩年と評価

  • 帝が江南宋宗室・大姓の北方移住を計画した際にこれを諫めて中止させた。淮浙の飢饉に際し租税半減と江西・湖広からの糧輸送を提言。交趾遠征にも反対して思いとどまらせた。至元25年(1288年)平章政事となったが辞退。僧格が丞相となり財利を専断する中、匡正できなかった。
  • 僧格失脚後、揚州儒学正李淦が「葉李は僧格を推挙した罪がある」と上書したが、帝は葉李の廉直を信じて取り合わなかった。至元29年(1292年)2月南帰の途上、帝は再び召還を試みたが病により叩頭謝辞し、まもなく卒、享年51。至正8年(1348年)資徳大夫江浙等処行中書省右丞上護軍を贈られ南陽郡公に追封、諡は文簡。自奉は倹しく、賜物はすべて子孫に清慎を戒めて還官させた。