出自と若年の才
- 曹元用、字は子貞、代々阿城に住み後に汶上に移った。幼くして俊才で一目で暗誦する才があった。鎮江路儒学正から京師に出て、翰林承旨閻復に文才を認められ、翰林国史院編修官に推薦された。史院僚属の試験による選抜を提言し、中書省右司掾となって元明善・張養浩と共に「三俊」と称された。
- 応奉翰林文字・礼部主事として、崩じた皇后の諡号がないことを問題視し徽号を加えるよう建言。延祐6年(1319年)太常礼儀院経歴として英宗の親祀の礼制を整え、太廟の室数増設(十五室)を提案した。
英宗弑逆事件前後
- 至治3年(1323年)8月の南坡の変(特克実の変)に際し、賊党が両院学士を北上させようとしたが、元用は独り従わず「これは非常の変事だ、寧ろ死すとも曲従はしない」と拒んだ。ほどなく賊は敗れ、人々はその先見を称えた。
- 泰定2年(1325年)太子賛善、礼部尚書兼経筵官。大朝会の糾儀官として序列を整え、科挙法の存続や太廟四時の祭祀の維持を主張した。泰定3年(1326年)夏、日食・地震・星変に際し節倹・守令選任・恤民・厳粛な祭祀・佛事の淘汰などを説き、科挙の弊も論じた。仁宗英宗両朝実録の修纂に参与し、『大元通制』の編纂・『貞観政要』の国語訳に携わった。天暦2年(1329年)曲阜孔子廟の代祀を務め、太禧宗禋院副使への任命前に急死した。帝は嗟悼し、賻鈔五千緡を賜った。正奉大夫江浙等処行中書省参知政事護軍を贈られ東平郡公に追封、諡は文献。著書に『超然集』四十巻。