出自と参知政事への抜擢
- 梁徳珪は字を伯温といい、大興良郷の人である。初め昭睿順聖皇后宮に給仕し国語を習わせられ奏対に通じた。年11で世祖に見え、至元16年(1279年)、中書左司員外郎となり、まもなく郎中に陞り、6遷して尚書省事に参議した。至元31年(1294年)、執政が入って事を奏したとき帝がその曲折を詢ねても対えられなかったが、徳珪は傍らから明白通暢に弁析し、帝は大いに悦び参知政事を拝した。
- 省にあること日久しく、銭穀出納の制・銓選進退の宜・諸藩賜予の節に、命が驟かに至って簡牘を閲する暇がないときも、同列はどう言うべきか分からないでいたが、徳珪は数語で即座に決めた。疑事に遇うたびに「某事はまさに某律のようにすべきである。某年にかつてこの旨があった」と言い、これを検証すればみな然りであった。
- 北京で地震が起こり、帝は州郡が報じた囚の数を閲してその多過ぎることを怪しんだ。徳珪はまさに右司にあり詔で問われると「国事を当たる者が徴索を急ぎ蔓延させて収繋したためこうなったのです」と対えた。帝は感悟し中外の逋負を大赦し民はこれに頼って蘇った。
- 大徳中、成宗が在位すると一に祖武を遵じ廟堂は安静をもって治とし、進もうとする者はその志を逞しくすることができなかった。朋を集めて怨みを興し事を摭って徳珪を中傷する者があった。たまたま帝が疾に伏すと、言者は盛気して詰めたが、徳珪は位が執政にあることをもって凌轢を受けず、慷慨として咎を引いて湖広に安置された。帝の疾が愈えるとこれを知り召して位に復させた。帝の元に至ると帝は「卿はどこにいたのか」と問い、徳珪は涕泣して語ることができなかった。酒饌を賜って母を拝しに行かせ、これにより気疾(気管の病)を理由に骸骨を乞い帰った。大徳8年(1304年)9月、家で卒した。享年46。