元史卷一百七十一 列傳第五十八 劉因
劉因は字を夢吉といい、保定容城の人。号を静修という。周・程・張・邵・朱・呂の学を究めた大儒で、朝廷の召命をたびたび固辞し隠逸を貫いたことから、世祖に「不召の臣」と評された(至元30年・1293年没、享年45)。
年表(3件)
- 至元19年1282年詔により召され承徳郎右賛善大夫に擢けられる
- 至元28年1291年集賢学士嘉議大夫として再び召されるが疾を理由に固辞する
- 至元30年夏4月16日1293年卒す。享年45
出自と早熟の才
- 劉因は字を夢吉といい、保定容城の人である。代々儒家であった。五世祖の劉琮は敦武校尉臨洮府録事判官の劉昉を生み、劉昉は奉議大夫中山府録事の劉俣を生み、劉俣は劉秉善を生んだ。金の貞祐年中、劉秉善は南徙し、その弟の劉国宝は興定進士に登り奉直大夫枢密院経歴に至った。劉秉善は劉述を生み、劉述が劉因の父である。
- 壬辰の年、劉述は初めて北帰し、意を刻んで学問を問い性理の説を究め長嘯を好んだ。中統初、左三部尚書の劉肅が真定を宣撫すると武邑令に辟召されたが疾により辞し帰った。年40にしてまだ子がなく「天がもし私に子を無くさせるなら、それでよい。もし子があれば必ず読書させよう」と嘆いた。劉因を生む夕、劉述は神人が馬に一児を載せて家に来て「善くこれを養え」と言う夢を見て、目覚めると生まれた。乃ち駰と名付け字を夢驥とし、後に今の名(因)と字(因)に改めた。
- 劉因は天資絶人、3歳で書を識り一日に千百言を記し、目を過ぎればすぐに誦じ、6歳で詩に能じ、7歳で文を属し落筆すれば人を驚かせた。ようやく弱冠になると才器超邁で日々方冊を閲し古人のような者に及びたいと思い、これを友とした。『希聖解』を作った。国子司業の硯彌堅が真定で教授すると劉因はこれに従学し、同舎生でこれに及ぶ者はいなかった。
- 初め経学は訓詁疏釈の説を究めるだけであったが、劉因は「聖人の精義はおそらくこれだけにとどまらない」と嘆じ、周・程・張・邵・朱・呂の書を得るに及び一見してその微を発した。「私はもとよりこれがあるべきだと思っていた」と言い、その学の長所を評して「邵は至って大、周は至って精、程は至って正、朱子はその大を極めその精を尽くしてこれを正で貫く」と言った。その高見卓識は率ねこの類であった。
孝と隠遁の生活
- 劉因は早くに父を喪い継母に事えて孝であった。祖父の喪が未葬であったため書を先友の翰林待制の楊恕に投じると、楊恕は憐れんでこれを助け、ようやく事を成し遂げることができた。劉因は性、苟合せず妄りに交接せず、家は甚だ貧しくてもその義でなければ一介も取らなかった。
- 家居して教授するとき師道は尊厳で弟子でその門に至る者は材器に随って教え、みな成就するものがあった。公卿で保定を過ぎる者は多く、劉因の名を聞いて往々にして訪ねて来たが、劉因は多く遜避して会わず、知らない者はあるいは傲慢と思ったが意に介さなかった。かつて諸葛孔明の「静以修身」の語を愛し居るところに「静修」と表した。博果密がその学行をもって朝に薦めた。
- 至元19年(1282年)、詔により召され承徳郎右賛善大夫に擢けられた。初め裕皇(裕宗)が学宮を建て賛善の王恂に近侍の子弟を教えさせたが、王恂が卒すると劉因が継ぐよう命じられた。まもなく母の疾により辞し帰った。翌年、内艱(母の喪)に丁った。至元28年(1291年)、再び詔により使者を遣わし集賢学士嘉議大夫として徴されたが、疾を理由に固く辞し、上書を宰相に上げた。
辞退の上書
- その上書には「私は幼くして読書し大人君子の余論を聞いて、他には得るところがなくても君臣の義については自ら明らかに見ていると思っています。日用近事から言えば、およそ我々の人が安居して食に暇があり生聚の楽を遂げられるのは、誰の力かといえば皆君上の賜物です。ですから我らが有生の民は、あるいは力役を給し、あるいは知能を出し、それぞれ自ら効すことがあるべきで、これは理勢の必然、万古を亙っても変えられぬことであり、荘周氏がいう『天地の間に逃るる所無し』とはこのことです。私は生まれて43年、いまだ尺寸の力も国家養育生成の徳に報いていないのに恩命が連なり至っています。私がなお偃蹇と出ず高尚の名を貪り自らこびて、国家知遇の恩に負き聖門中庸の教えに罪を得るなどということが許されましょうか」と述べた。
- さらに「私が立心してより、幼少より長ずるまで、一日たりとも崖岸卓絶し高難を続けるような行いをしたことはありません。平昔の交友でひとたびでも縁のあった者はみなこの私の心を知っています。ただ伝聞した者が、実を求めず蹤跡の似たものだけを見て、高人隠士の目をもって私を見ているのです。あなたもまた私がこれをもって自ら居していないことを知っておられます。かつて先儲皇(裕宗)が賛善の命をもって召したとき、使者とともに即座に赴きました。再び旨を奉じて教学を命じられたときも即座に応命しました。その後、老母が中風を患い帰って省視することを請いましたが、不幸にして病が長引き結局憂制に遭い、それきり出ませんでした。それは決して初めから仕えるつもりがなかったからではありません。まして今、聖天子は賢良を選び用いて時政を一新しようとされている。以前の隠晦の人でさえも今出仕しようとするのに、私はもともと隠晦ではありません。しかも不次の寵と優崇の地を加えられているのですから」と続けた。
- さらに「そのため形は留まりながら意は往こうとし、命と心が違い、病んで空しい斎に伏し、恐れながら罪を待っています。私はもとより羸疾があり、去年子を喪ってからの憂患の後、痁瘧(マラリア様の熱病)が続き夏から秋を経て一応平復しましたが、精神気血はすでに旧に非ずなっています。今年5月28日、瘧疾が再発し、7月2日に至って旧積が蒸発し腹痛が刺すようで下血が止まらず、8月初めにふと一念、旁に期功の親がなく家に紀綱の僕もなければ、もし一旦身が朝露に先立てば必ず人を累わすことになると自ら嘆き、人を容城の先人の墓側に遣わし一舎を修営させ、病勢が退かなければまさにその中に居って死を待とうとしました。人を遣わす際に感傷し病勢はいっそう増しました。飲食は極めて減り、8月21日に使者が恩命を持ってきたとき、私は初めこれを聞き惶怖して身の置き所がなく、どうすべきか分かりませんでした」と述べた。
- 最後に「よく考えるに、職に就くことは病に堪えないとしても病を扶けて行くことができなくても、恩命はあえて病を扶けて拝さないわけにはいきません。少しでも遅疑すれば臣子の心が安からず、蹤跡が高峻に近すぎて人情に合わなくなります。そこで即日、拝受し、使者を留めて病勢がやや退くのを待ってこれと共に行こうとしましたが、遷延して今に至り、服療は百に至っても一効もありません。そこで使者に先行を請い、学生の李道恒に上鋪馬聖旨を納めさせ、病が退くのを待って自ら気力を備えて行きたいと存じます。閣下には矜憫を加え曲げて保全されんことを望みます。私はまことに疎遠微賎の臣で帷幄の諸公とは異なり、その進退の苦は難処の事ではありません。ただ閣下がその始終を成就されんことを願います」と結んだ。
- 上書は朝廷に届けられたが強いてそれを致すことはなかった。帝はこれを聞き「古にいわゆる『不召の臣』とはこの人のような者を指すのだろう」と言った。至元30年(1293年)夏4月16日、卒した。享年45。子がなく聞く者は嗟悼した。延祐中、翰林学士資善大夫護軍を贈られ容城郡公に追封された。諡は文靖。歐陽元がかつて劉因の画像に賛して「微子の狂にして沂上・風雩の楽あり、資は由の勇にして北鄙鼔瑟の声なし。裕皇の仁をもって留めることができなかった四皓、世祖の略をもって招致することができなかった両生。ああ、麒麟鳳凰はもとより世に常にあるものではないが、一鳴すれば六典が作られ、一出すれば春秋が成される。その志は世を遺てて独り往くことを欲しないのは明らかで、周公・孔子の後を継ぎ、往聖のために絶学を継ぎ、来世のために太平を開こうとしたのだろう」と述べ、論者はこれを知言とした。
- 劉因の著書には『四書精要』30巻、詩5巻『丁亥集』があり、劉因が自ら選んだものにさらに文集10余巻および『小学四書語録』があるが、これらは門生故友が記録したものである。ただ『易繋辞説』だけは劉因が病中に自ら親筆したものである。