元史卷一百七十 列傳第五十七 呉鼎

出自と地方官としての恵政

  • 呉鼎は字を鼎臣といい、燕の人である。至元17年(1280年)、裕宗に東宮で見え入って宿衛を命じられた。至元25年(1288年)、織染雑造局総管府副総管を授かり、後に累官して礼部尚書宣徽副使に至った。大徳11年(1307年)、山東諸郡が饑饉に見舞われると詔により呉鼎に賑わせるよう遣わした。朝廷は米4万石を発し1万石は鈔に折るよう議したが、呉鼎は同使者に「民は鈔を得てどうして米に易えられるだろうか」と言った。同使者は「朝議はすでに定まっている。復たがたいだろう」と言ったが、呉鼎は「人命はどうして米より重くないだろうか」と言い、朝廷に言上して結局その請の通りとなった。
  • 至大元年(1308年)、正奉大夫保定路総管に改まった。時に皇太后が五台に幸そうとし、言者が保定西の五迴嶺を開いて捷径を取るべきだと請い、使者を遣わして呉鼎に地形を視させ工費を計らせた。呉鼎は「荒山は斗入し人跡は久しく絶えており、乗輿の往還には適しません」と言上した。太后は喜びその役を止めた。至大3年(1310年)、資善大夫同知中政院事を召し授けられた。両浙の財賦で中政院に隷するものは巨万に計られたが、前任の徴収者はしばしば多くその贏を取っていた。呉鼎はこれを治めて一切の私を働かなかった。
  • 浙に朱・張という富豪二家がおり多くの銭を民に貸していたが、後に両家は誅沒され券のうち既に償われたものも官に入れられていた。官はただ券を検して徴理し民は堪えられなかったが、呉鼎は力めて弁白しようやく免れさせることができた。至大4年(1311年)、京畿漕運使に改まった。皇慶2年(1313年)、特旨により再び宣徽院事を知り、4月、資政大夫崇祥院使に進んだ。延祐3年(1316年)、享年53で卒した。栄禄大夫平章政事柱国を贈られ薊国公に追封された。諡は孝敏。