出自と鈔法の建言
- 楊湜は字を彦清といい、真定藁城の人である。章程学に習い工書筭であった。始め府吏をもって検法に遷った。中統元年(1260年)、中書掾に辟召され中山の楊珍・無極の楊卞とともに名を斉しくし、時人は「三楊」と目した。中書省が初めて立つと国用が不足し、楊湜は鈔法をもって榷貨を国用に制するべきと論じ朝廷はこれに従いその条制を掌らせた。
- 4年後、益都路宣慰司諮議を授かり左司提控掾に遷り贓吏の法を厳しくすることを請うた。至元2年(1265年)、河南大名諸處行中書省都事を除され、至元3年(1266年)、制国用司を立て天下の銭穀を総べると楊湜は員外郎とされ金符を佩び、宣徽院参議に改まった。楊湜は帑を計り籍を立てその出入の筭を具え毎月終わりにこれを上げ、これが令として定められた。諸路交鈔都提挙を加え鈔法便宜の事を上言し、平準行用庫の白金の出入に偸濫の弊があるとして、50両を鋳造して鋌となし文を元寳としてこれを用いる便を請うた。
- 至元7年(1270年)、制国用司を尚書省に改め戸部侍郎を拝しなお交鈔提挙を兼ねた。時に壬子の旧籍によって民の賦役の高下を定めていたが、楊湜は「貧富は常ならず、歳が久しくなればすぐに変わる。昔時の籍をもって今の賦役を定められようか」と言った。廷議はこれを善しとし、これによりその輕重を第させると人々はこれを平とした。楊湜は心計に精析で、時に経費を論じる者はみなその能を推した。子の克忠は安豐路総管、孫は貞。