出自と東平統治
- 張昉は字を顕卿といい、東平汶上の人である。父の張汝明は金の大安元年経義進士で治書侍御史に至った。張昉は性、縝密で事に遇えば敢言し確然として守りがあった。任子として吏部令史試補となった。金が亡ぶと郷里に還った。厳実が東平を行台すると掾に辟召された。郷人に左道を執り衆を惑わし不軌を謀る者がおり、事が発覚し逮捕されるものが誤って甚だ多くの人に及んだが、諸僚佐はあえて言わなかったところ、張昉だけが別白して数百人を出した。
- 実は才とし幕職に進めた。時に兵の後、吏曹は雑然と進んで文法に習わず、東平の轄郡邑は54で民衆事繁く簿書は填委し統紀がなかったが、張昉は曹に坐して案牘を躬閲し左右に酬答してみなその当を得た。事に留滞がなかった。初め将校が死事したとき弟がその職を襲っていたが後にこれが革されたところ、張昉はこれを辯明して復した。ある者が金を持って夜に張昉に饋ったが張昉はこれを却け、その者は慙謝して去った。同里の張氏は絲5万両を張昉の家に寄せ他所に適いたが、たまたま張昉の家が火に遭い家人は惶駭して走り避けたが貲用はすべて焼けても寄せられた絲だけは力を尽くして守り、張氏に返した。
- 乙夘の年、東平府事を権知したが疾により辞し家居して母を養った。中統4年(1263年)、参知中書省事の商挺が巴蜀に鎮すると四川等處行枢密院参議に表された。至元元年(1264年)、中書省左右司郎中として入り能否を甄別しその黜陟を公にしたので人に怨言はなかった。至元3年(1266年)、制国用使司郎中に遷り、制司は専ら財賦の職で宰臣がこれを領し集事を倚任すること尤も煩重であったが、張昉は誠を竭し賛画し出納は謹厳を極め、賦は増やさなかったのに国用は饒かとなった。至元4年(1267年)、内憂に丁り哀毀は制を踰えたが、まもなく詔により起復し東平の囚を録すこと平反するところが多かった。
- 至元7年(1270年)、尚書省左右司郎中に転じ、至元9年(1272年)、中書省左右司郎中に改まった。張昉は識慮があり古今を損益し典憲を裁定すること時に適い、称職の名があった。至元11年(1274年)、兵刑部尚書を拝し骸骨を乞い辞し、卒した。中奉大夫参知政事を贈られ東平郡公に追封された。諡は荘憲。子の克遹は平陰県尹、孫の振は秘書著作郎、揆は中書省司都事、拱は常徳路蒙古学教授。