出自と行政の才
- 張炤は字を彦明といい、済南の人である。父の張信は商賈をもって家を起こし郷里に貲雄した。壬辰の年、饑饉で粟を出して鄉人を賑貸し人々はこれに頼って全活した。張炤は幼くして穎悟で力めて学び、初めて吏に補された。済南で計を上げる際、夀陽行省には積年の未輸銀10万5千両の勾考があったが、張炤はその利害を条陳し切実であったため免れることができ、民は擾されずに済んだ。中統元年(1260年)、中書省掾に辟召され、まもなく右司提控案牘に遷った。
- 中統4年(1263年)、山東東路大都督府員外郎として出、至元4年(1267年)、陝西五路西蜀四川行中書省左右司員外郎に転じた。至元8年(1271年)、奉訓大夫を加え兖州事を知った。時に州境で亢旱があり吏民が懇禱しても雨がなかったが、張炤が着任すると甘雨が霑足した。属邑に桀黠な吏が官府を挟んで暴横を為していたが、張炤はこれを法をもって縄し境外へ杖打って出したので民害は息んだ。
- 至元11年(1274年)、淮西等路行中書省左右司郎中に改まり、丞相の按塔哈が軍を領して瓜州・鎮江を進攻すると、張炤は糧儲・戦具を運び給い、2年にわたり賛画の功が多かった。至元13年(1276年)、揚州が未だ下らず丞相の阿珠が兵を提げて攻め、5月、宋将の李廷芝は城を棄て泰州に遁った。張炤は兵を領して揚州城下に迫り、自ら制置の朱煥を招諭して城を降させ、廷芝もまた擒えられた。張炤の伝檄が下らぬうちに州郡はみな望風して款附した。阿珠に従って入覲すると世祖は錦衣鞍勒を賜った。
- 同年、太中大夫揚州路総管府達嚕噶齊商議行中書省事に陞り金虎符を佩んだ。時に行省は揚州にあり南北の要津に拠っていたが、張炤は撫綏し労来したので上下は安んじた。至元16年(1279年)、鎮江路総管府達嚕噶齊に改まり、病を謝して帰るときは書8万巻を購い、うち1万巻を済南府学に送って教育の資とした。至元21年(1284年)、東昌路総管として起用され、蒞政2年で吏民は畏服し治最をもって称された。至元25年(1288年)、享年64で卒した。延祐5年(1318年)、太中大夫東昌路総管を贈られ清河郡侯に追封された。諡は敬恵。子の張用中は沂州山場同提挙。