出自と江南での司法
- 申屠致遠は字を大用といい、その先祖は汴の人で金末にその父の申屠義とともに東平の夀張に徙った。申屠致遠は東平府学で業を肄み、李謙・孟祺らと名を斉しくした。世祖が南征し兵を小濮に駐屯させると、荊湖経略使の奇爾実哷台が推薦し経略司知事となった。軍中の機務は多く彼が謀画した。師が還ると随州で俘虜になった男女はことごとくこれを縦して遣った。
- 至元7年(1270年)、崔斌が東平を守ると学官に聘され、至元10年(1273年)、御史台が掾に辟召したが就かず、太常太祝兼奉礼郎を授かった。帝が太常卿の博囉を遣わして毛血の薦を問うと、申屠致遠は「毛をもって純を告げ、血をもって新を告げるのが礼です」と対えた。
- 宋が平定されると焦友直・楊居寛が両浙を宣慰し都事に挙げられ、まず宋の図籍を朝に上げ、江南の学田はそのまま学を贍わすべきだと言い、行省はこれに従った。臨安府安撫司経歴に転じ、臨安が杭州に改まると総管府推官に遷った。宋の駙馬楊鎮の従子の玠節の家は資に富み、守蔵吏の姚溶がその銀を竊み事の発覚を懼れ、玠節が陰かに宋の広益二王と通じていると誣告し、有司が搒笞して誣服させ獄が具わったが、申屠致遠がこれを讞じてその情を得た。
- 姚溶が罪に服し、玠節は賄をもって謝そうとしたが、申屠致遠は怒ってこれを絶った。杭人の金淵が儒に冒籍しようとしたが、儒学教授の彭宏が従わなかったため、金淵は彭宏が異志のある詩を作ったと誣告し書を市に掲げた。邏者がこれを上げると、申屠致遠がその情を察して金淵を捕らえ窮詰して罪した。属県が反者として械した17人を訊問すると、寇の乱の際に自衛のため兵を執ったことによるもので実は反者ではなく、みな釈された。西僧の嘉木揚喇勒智は宋の故宮に浮図を作ろうとし、高宗の書いた九経石刻を築基に取ろうとしたが、申屠致遠がこれを拒み止めた。
正義感と晩年
- 夀昌府判官に改まり、時に盗寇が竊発し日本征伐用の戦船の建造も加わり遠近が騒然としていたが、申屠致遠の施策は方があり衆はこれに頼って安んじた。至元20年(1283年)、江南行台監察御史を拝した。江淮行省宣使の郄顕・李兼が平章の孟古岱の不法を愬えたが詔により問わぬこととされ、なお顕らを孟古岱に付してこれを鞫問させ死をもって抵しようとした。申屠致遠は浙西で慮囚しその冤状を知り、縦してやろうとしたが、孟古岱は勢いでこれを脅した。申屠致遠は動じず、自ら顕らの械を脱して軍に従わせ自贖させた。
- 僧格が国事を執っていたとき、治書侍御史の陳天祥が湖広に使いして平章の約蘇穆爾の貪状を弾劾すると、僧格は疏中の語を摘んで不道を誣告し、使者を遣わして訊問させ天祥は逮捕された。時に行台が御史を湖広に部を按行させたが、みな彼らを憚りあえて往く者がなかったところ、申屠致遠が行くことを請い、至るなり累々章を上げて極論した。僧格がまさに天祥の罪を定めることを促していたところに、申屠致遠の章が上がると僧格は気が沮んだ。
- 江南行省平章の瑪哈穆特は商税の外にみだりに徴取を加え、呼遜は郷民を匠戸に籍し、転運使の盧世栄は榷茶で利を牟っていたが、申屠致遠はこれらを並せて弾劾した。また占城・日本を海を渉って遠征すべきでなく徒に中国を疲弊させることや、銓選が南北で優苦不均であるため殿最を考量し地の遠近を量って定制を立てるべきであり、そうすれば銓衡が平らかになり吏弊も革まると言った。他にも香莎米税の罷免、竹課の弛緩、司獄官・医学職員の設置がみな申屠致遠が発したことである。
- 至元28年(1291年)、父の憂に丁り、江南行台都事として起復されたが終制をもって辞した。至元29年(1292年)、江東建康道粛政廉訪司事を僉されたが至らぬうちに疾により還った。元貞元年(1295年)、世祖実録を纂修し翰林待制に召されたが赴かなかった。大徳2年(1298年)、淮西江北道粛政廉訪司事を僉され、行部で和州に至って病により卒した。
- 申屠致遠は清修苦節で権貴に事えることを恥じ、蔵書1万巻を蓄えて「墨荘」と名付けた。家に余産はなく、諸子を教えることは師友のようであった。著書に『忍斎行藁』40巻・『釈奠通礼』3巻・『杜詩纂例』10巻・『集験方』20巻・『集古印章』3巻がある。子は7人、伯騏は徴事郎嶺北湖南道粛政廉訪司知事、驥・驪はともに学官、駉は奉政大夫兵部員外郎。