出自と皇太子の宮室建設
- 高觿は字を彦解といい、渤海の人である。世々金に仕え、祖父の高彜が上党に徙り、父の高守忠は国初千戸となり、太祖9年(1214年)、親王の昆布哈に従い黄州を攻め兵で殁した。高觿は世祖に仕え宿衛に備え頗る親幸された。至元初、燕王を皇太子に立てると、詔により才儁の士を選び官属に充てさせ、高觿は藝文を掌り中醞・宮衛監門事を兼領し、また皇太子宮の建造を監督し規制は法にかない、帝はこれを嘉し金幣・厩馬を錫った。これにより実喇の名を賜った。
- 至元18年(1281年)、中議大夫工部侍郎行同知王府都総管府事を授かった。至元19年(1282年)春、皇太子が帝の北幸に従うと、丞相の阿哈瑪特が大都を留守し専権貪恣で人はこれを厭苦した。益都千戸の王著は高和尚らとともにこれに乗じて変を謀り彼を殺そうとした。
- 3月17日、高觿が宮中に宿衛していたとき、西蕃僧2人が中書省に至り「今夕、皇太子と国師が来て仏寺を建てられる」と言った。省中はこれを疑い、かつて東宮に出入りした者に雑って識らせて視たが、高觿らはみな識らなかった。そこで西畨語で二僧に「皇太子と国師は今どこにいるのか」と詢ねると、二僧は失色し、また漢語で詰めると倉皇として答えられなかった。そこで二僧を捕らえ吏に属して訊問したがみな不伏であった。
王著の変平定
- 高觿は変事を恐れ尚書の蒙果勒・張九思とともに衛士と官兵を集め、それぞれ弓矢を執って備えた。しばらくすると枢密副使の張易もまた兵を領して宮外に駐した。高觿が果たして何をするのかと問うと、張易は「夜が更ければ自ずと見える」と言い、高觿がなお固く問うと附耳して「皇太子が来て阿哈瑪特を誅すのだ」と言った。
- 夜二鼓、人馬の声を聞き、遠く燭籠儀仗が門に至ろうとするのが見えた。その一人が前に呼んで関を啓かせようとした。高觿は張九思に「他の時、殿下が宮に還るときは必ず諤勒哲・賽音の二人を先に請い、見えてから二人が関を啓く」と言い、二人を呼んで応じなければすぐに「皇太子は平生ここを通ったことがない。今どうしてここに来るのか」と語った。賊は計が窮まり南門に趨り、高觿は張子政らを西門に留めて守らせ、急ぎ南門に走って伺うと、省宮の姓名を伝呼するのが聞こえ、燭影の下、阿哈瑪特と左丞郝禎がすでに殺されているのが遠く見えた。
- 高觿は張九思とともに大呼して「これは賊だ」と叱り、衛士に急ぎ捕らえさせると、高和尚らはみな潰走した。ただ王著だけが擒えられた。黎明、中丞の額森特穆爾と高觿らは駅を馳せて上都に至り事を帝に聞かせた。帝は中外が未だ安からぬからさらに武備を厳にすべしとし、使者を労って急ぎ帰らせた。高和尚らは処刑された。至元22年(1285年)、嘉議大夫同知大都留守司事兼少府監に遷り、久しくして中奉大夫河南等處宣慰司に遷り、享年53で卒した。