出自と鄂州包囲戦
- 謝仲温は字を君玉といい、豊州の人である。父の謝睦歓は貲をもって郷曲に雄視し、大兵が南下すると烏拉城を転客とした。太祖が西夏を攻めその城を過ぎると、謝睦歓はその帥とともに迎え降り、西京攻略に従った。謝睦歓は力戦して先登し3矢を連中し城下に倒れた。太宗はこれを見て憐れみ、軍校に矢を抜かせ牛を縛りその腸を刳って裸のまま牛の腹中に入れさせると、しばらくして甦った。死をもって報いることを誓い、敵に遇うたびに必ず身を先んじた。官は太原路金銀鉄冶達嚕噶齊に至った。
- 謝仲温は豊頤広顙で声音洪亮、書史に略渉した。壬子の年、世祖に野狐嶺で見え宿衛に備えさせられ、行幸するとき必ず左右にあった。丙辰の年、上都に城を築くと、謝仲温は工部提領としてその役を董した。帝は「汝がただ挺(棒)を執っているだけで、百千人はどうしてお前を懼れないだろうか(=汝の統率力があってこそ従うのだ)」と言った。
- 己未の年、大軍が鄂州を囲んだとき諸将を督させたが、時に守江の軍士は食に乏しく、謝仲温は魚を煮て食を充てることを教えた。帝は喜び侍臣に「朕はこれを思いつかなかった」と言い、駝乳を飲ませ「他日忘れることはない」と言った。ある夕、帝が敵軍の讙譟を聞き警備を命じると、謝仲温は繩床を奉じ、帝はその肩に凭れて行き、朝に至るまで寝ることができなかった。
地方官としての治績と晩年
- 中統元年(1260年)、平陽太原両路宣撫使に擢けられ、中統2年(1261年)、西京に改まった。至元9年(1272年)、順徳路総管に遷った。時にまさに江淮征伐に兵が用いられ、寡婦が子を鬻いで転輸の代価を償っていたので、謝仲温は俸金を出してこれを贖い還した。至元16年(1279年)、湖南宣慰使となり、至元22年(1285年)、淮東に改まった。歳が旱ると謝仲温は白水塘を導き民田を灌漑し公私はこれに頼った。
- 至元30年(1293年)春、入って見えると、帝は「汝は謝仲温ではないか。朕は汝が死んだと思っていた」と言い、従容として鄂州攻めのときの事に語り及び、帝は喜ぶこと甚だしく「汝は復官するか。朕がまさに卿のために選ぼう」と諭すと、謝仲温は「臣は老いました。何もできません。一子は早く亡くなり、ただ孫の巴鄂特がおります。陛下の憐れみを願うのみです」と対えた。即日、宿衛に備えさせるよう命じられた。大徳6年(1302年)、卒した。享年80。子の蘭は江州達嚕噶齊であったが先に卒し、孫の巴鄂特は承事郎冀寧等路管民提挙司達嚕噶齊。