元史卷一百六十九 列傳第五十六 舒穆嚕明埒
圖沁布哈は賈実喇の曾孫。世祖・成宗・武宗に仕えた勇武の近臣で、杭愛の叛者赦免を進言するなど直言をもって知られた。宣徽使を辞退するなど謙譲の人柄でもあった。晩年、同僚特克実の讒言で殺されたが、後にその大逆が発覚し名誉回復された。
赫嚕以来の代々の内膳
- 舒穆嚕明埓は契丹人で、姓は舒穆嚕、代々内膳を典り、国制で内膳の近臣は篤敬が素より著しくなければ明埓とはなれなかった。祖父の赫嚕は太祖に事えた。睿宗がかつて帝に求め、帝はその僚10人を聴して往かせ、勅して「皇子はまさに兵を総べ地を闢くところだ。朕はこれをもって事えさせる。朕に事えたその恭を持って事えれば、黄金でその身を覆うほどにするだろう」と言った。顕懿荘聖皇后は憲宗・世祖に「赫嚕が太祖に事えたとき、聖躬が少しでも不豫であれば、その烹庖の精は常日の百倍であった。汝ら兄弟は終始これを遇するべきだ」と語った。
- 睿宗がかつて太宗の西征に従い、道中、水が絶えたとき、赫嚕は朝早く起きて草上の霜を集め羹を煮て進めた。睿宗が「どこから水を得たのか」と問うと、その故を告げた。師が還ると金帛を甚だ厚く賜った。赫嚕は享年80で卒した。
- 中統初、明埒が入見すると、世祖は侍臣に命じて明埒を裕宗の元に送らせ「明埓は朕の親臣の子である。今、これをもって汝に事えさせる。膳事を典らせよ」と言った。世祖がかつて裕宗に、従人10人を連れて来させ賞を行おうとした。10人が帝の前に至ると、4人は明埓の上に列した。帝が「第五人は明埓ではないか」と問うと「そうです」と対え、帝は「上に上げよ」と言うと、明埓は一人を越えて立った。帝がまた「さらに上げよ」と言うと、また一人越えて立った。帝は「止めよ」と言い、金文衣一襲を賜った。
- 明埓が出ると、侍臣は明埓が後から来て却って上に居たことについて、互いに耳語した。帝はこれを聞き「明埓の祖の赫嚕は太祖・睿宗に事え朕に及んでいる。汝らの兄弟はその時どこにいたのか」と言い、後から来た者を顧みて言った。帝が北方で叛者を親討したとき、明埓は矛を持って備えることを請うた。師が還ると第一の功をもって白金百両を賜った。
晩年と栄誉
- 至元28年(1291年)、典膳令となった。成宗が即位すると朝列大夫を加えられ金帯を賜り、また御衣一襲・鈔1万5千貫を賜り、詔により「明埓は旧臣である。その諸子を宿衛に入れよ」とされた。礼部尚書を仮に授かり、嘉議大夫に進階して尚書の禄を食んだが、老いを理由に辞した。
- 武宗が即位すると詔により「明埓夫婦は帝后に歴仕し朕の躬を保抱した。朕は甚だこれを徳とする。明埓を特に栄禄大夫司徒とせよ。その妻の梅仙は順国夫人に封じ、黄金250両・白金1500両・衣一襲を賜る」とした。仁宗が東宮にあったとき宮人に「昔、朕が疾を患い甚だ危険であったとき、徽仁裕聖皇后がこれを憂え、梅仙は看視して帯を解かないこと70日に及んだ。今もその賜を忘れてはいない」と語り、明埓に宝帯・錦衣・輿および四騾を賜った。至大3年(1310年)2月、享年69で卒した。子はみな顕貴となった。