元史卷一百六十九 列傳第五十六 劉哈喇巴圖爾

劉哈喇巴図爾は河東の人、もと劉氏。医術と武勇をもって世祖に仕え、王府に従軍して托和・錫里済らの陰謀を見破るなど忠勤を尽くした。晩年、宣慰使として肇州の設置を託されるなど信任篤かった(元貞元年・1295年没)。

年表(9件)

出自と母への孝

  • 劉哈喇巴図爾は河東の人である。もとは劉氏で家は世々医を業とした。至元8年(1271年)、世祖が白海に駐蹕したとき、近臣の言により召見された。世祖はその目に火光があるとして異とし、左右に留め侍らせた。初め哈喇鄂拓克斉の名を賜った。至元17年(1280年)、太医院管勾に擢けられた。錫里済が宗王の布色特穆爾に叛いたので、帝は命じてこれを征させることになった。帝は哈喇巴図爾に「行く者の多くは事を避けている。汝は医に善く騎射にも習っているから従行できるか」と諭すと、「君に事えるのに難を辞さないのに、臣が行かなければ何をすべきか」と対え、甲を受けることを請うた。
  • 帝は「汝はなぜ甲を用いるのか」と言うと、「臣は一戦士に備えたいと願います」と対えたが、帝は「医は汝の事であり甲は与えられない」と言い、ただ環刀・弓矢・裘馬等の物を賜って行かせようとした。ちょうど母の病を聞き帰省を請うと帝は駅を給し帰らせた。母を見ると遠役を告げなかったが、母もまた微かに察していたようで「汝はただ行け、我が病は安らかだ」と言った。哈喇巴図爾は辞去し涙を忍んで下さなかったが、鼻血が突然出て数里止まらなかった。

托和の陰謀阻止

  • 王の所に馳せ着くと、ある日、野に狩に出て狐が草に竄れ、王がこれを射たが命中せず、哈喇巴図爾が一発でこれを命中させた。王は大いに喜んだ。王妃が病むと薬を与えると即座に癒えた。王はまた喜び彼を府長史に奏薦した。将に戦おうとするとき、王に甲を請うたが、王は「上が汝に与えなかったのに、我がどうしてあえて与えようか」と言い、留めて輜重を領させた。哈喇巴図爾は肯んぜず「大丈夫たるもの、当に行陣に命を効すべきであり、営帳を守ることを婦人のようにできようか」と言い、甲を着ている者を見ると酒を飲ませ高値でその甲を取った。翌日、これを着て出かけると、王はその甲冑を望見し使いを馳せ問わせた。冑を脱いで「我だ」と言い、慨然として「一人が善を興せば万人がこれを激される。我は万人のために激されるのだ」と言った。
  • 道中、賊に三度遇い、賊が射たがどれも命中しなかった。王は大いに喜び衣を解いて着せ「これで識り分けられる」と言った。次に金山の路が隘であるところに至り兵を頓めて進めずにいたところ、使者が「托和王の所より来た。我は太祖の分地を守りここを失わない。上の使いや昔里済がここを過ぎる際にはみな飲食を供給し二心はない。天子に見えたいと願うが道が遠く援けがない。今、王が来ると聞いて甚だ喜んでいる。一度会いたいのだが」と言った。
  • 王はこれを信としたが、左右は「これは詐りです。托和の居るところは要害であり、おそらく錫里済の耳目となっているでしょう。聴くべきではありません」と言った。そこでその使者を留め、兵を間道から遣わし窺わせると、遊騎30人を獲た。訊問するとその情を得て、托和がまさに酒に酔っていると知り、不意を突いて出撃し大破した。これにより錫里済が遣わした使者も獲てその不備を知り、また勢いに乗じて進撃し大破しこれを擒えた。
  • 王は哈喇巴図爾に俘を行宮に献じさせた。帝はその瘦せ衰えているのを見て御膳の羊胾を輟めてこれを賜った。拝受すると先にその美味な部分を割いて懐に入れた。帝がその故を問うと「臣は初め母と訣別し、今、帰って母がなお存命であれば、君の賜りを持って行きたいと存じます」と対えた。帝はその志を嘉し「今後、賜る食物は必ず先に母に賜るように」と命じた。功により和琳等處宣慰副使を授かり、賜与は甚だ厚かった。

奇卜の裏切りと帰還

  • 至元23年(1286年)、同知宣慰司事に陞り、至元24年(1287年)、また宣慰使に陞った。至元25年(1288年)、海都が犯辺し、尚書省は和琳が糧を屯め緩急軽重を知るべき者が出納を掌るべきとし、奇卜を用いることを奏したが、帝は「銭穀は奇卜の知るところではない。哈喇鄂拓克斉こそ使えるだろう」と言い、嘉議大夫に進階しなお職はそのままとし、奇卜と俱に使わせた。
  • 至元26年(1289年)、海都の兵が至ると皇子の北安王は使者を遣わし奇卜にその民を率いて避けさせるようにさせた。奇卜と哈喇巴図爾は南行6日、巴爾布拉克に止まり、海都軍から56里であった。奇卜は懼れ「事は急である。順わないほうがよい」と言った。哈喇巴図爾はその弟の欽祖・栄祖に「奇卜には二心がある」と語り密かに遁れ、特黙斉千戸の呼魯蘇に遇うと従騎百余人がいた。呼魯蘇に問うと「私は海都の軍中にあって奇卜が反すると聞き、宣慰は脱身して天子に帰報するというので、追ってきた」と言った。哈喇巴図爾はその誠を察し共に謀り、陳乗高を西南に潜め立たせ「私は今、奇卜を責めに行く。汝らは動くな。私が弓を執って立ち上がるのを見たら応じよ」と令した。
  • 奇卜に会うと、奇卜は海都の令をもって威嚇したが、哈喇巴図爾は詭辞をもって自ら解き、隙をみて疾走して呼魯蘇に着き陣を整えて出た。奇卜は騎を遣わして追わせたがしばしばこれを拒み却けた。道中、軍装を送る者に遇いこれを護って塩海に至り、入見すると帝は喜んで「人は汝が賊に陥ったと言ったが、よく来られたな」と言い、酒饌を与えた。侍臣に「たとえて言えば、畜犬が美食を得れば主人を棄てるのは奇卜のようなものだが、食を得ずとも主人を忘れないのはこの人のようなものだ」と言い、その名を察罕鄂拓克斉と改め、鈔5千貫を賜った。頓首して辞謝すると、共に来た者に賜与を分けてほしいと乞い、帝は特にこれを受けさせ、中書に共に来た者の賞をそれぞれ定めさせた。

肇州設置と晩年

  • 至元27年(1290年)、正奉大夫河東山西道宣慰使に遷り「臣は累戦して帰りましたが衣裘はすべて敝れ、河東は臣の故郷です。錦衣を賜って栄としたいと願います」と奏すると、帝は金織文衣を賜った。2年在職して召し還されると、帝は「これより北、納顔の故地でアバラフ(阿巴拉呼)というところは魚を産する。私は今、城を立ててエスヘン・ハヌセン・キルジソの三部の人を住まわせようと思う。その城を肇州と名付ける。汝は往って宣慰使になれ。別に汝に小龍児という名を賜ろう」と諭し、あるいは「哈喇巴図爾でもよいのだが、汝が自ら選べ」と言った。哈喇巴図爾は「龍は臣下があえて承れるものではありません」と対えると、帝は「それなら哈喇巴図爾でよい」と言い、繍衣・玉帯・鈔5千貫を賜った。彼が人主に眷注されることはこの通りであった。
  • 肇州に着くと市里を定め民居を安んじ、ある日、魚9尾を得て、みな千斤ずつあったので使者を遣わして献じた。まもなく召し還された。至元31年(1294年)春、世祖が崩じると、太傅の巴延は皇太后の旨を奉じ「東方は汝がかつて鎮めていたところ、今これを汝に属す。制命を待つに及ばない」と命じ、咸平宣慰使とした。元貞元年(1295年)、御史中丞として召されたが懿州に至って病没した。