元史卷一百六十八 列傳第五十五 姚天福

出自と御史としての直言

  • 姚天福は字を君祥といい、絳州の人である。父の姚居実は兵を避けて雁門に徙った。姚天福は幼くして春秋を読み大義に通じ、成長すると材をもって懐仁丞に辟召された。至元5年(1268年)、詔により御史台が立てられ姚天福は架閣管勾となり、まもなく監察御史を拝した。毎に廷で権臣を折り、帝はその直をもって嘉し、巴爾斯(バルス、虎の意)の名を賜り、その彊悍を畏れぬことが猶虎のごとしと言った。厚く賜って忠を旌しようとしたが、姚天福は「臣の職は紏弾に居り、爵禄を負うことだけを懼れています。重臣の罪を糺すことで厚賞を貪ろうとは思いません」と言った。
  • 時に御史台には二大夫が置かれ綱紀が統一されておらず、姚天福は世祖に「古に一蛇九尾は首が動けば尾が随い、一蛇二首は寸も進めないと言われています。今、台綱が張られていないのは一蛇二首の患いです。陛下が急いでこれを拯わなければ、久しくして紊乱して理せなくなるでしょう」と述べた。帝は伊蘇特穆爾と博囉にこれを諭させると、博囉は年幼を理由に自劾した。
  • 姚天福が畿内を按行していたとき、使者として出た者が民を凌ぎ賄賂を取ることがあり、姚天福は服を易えて間行し、その状を得て奏して戮すると、豪右は慴服した。至元12年(1275年)、詔により各道按察司を罷めることになると、姚天福は大夫の伊蘇特穆爾に「この司の設立は視聴を広くし非常事態を虞い、慮は深遠に至るためであり、ただ有司を縄すだけのものではない」と白した。大夫は驚き「あなたの言葉がなければ危うく過っていました」と言い、夜に帝の臥内に入りその言を奏すると、帝は大いに悟り復立を詔した。

地方官としての厳正

  • 権臣はこれを喜ばず、姚天福を朝列大夫衡州路同知に左遷したが就任せず、河東道提刑按察副使として起用された。時に北鄙で兵が興り転輸が煩急で河東の民は徭役に苦しんでいた。姚天福は反側を憂いとし、執政の失計を弾劾しその役を罷めさせることを奏した。中順大夫治書侍御史に徴拝された。
  • 至元16年(1279年)、江南がすでに平定されると嘉議大夫淮西道按察使を授かった。淮甸は兵衝に当たり、将吏に豪猾で民害となる者があったが、これをことごとく剷除し民は大いに悦んだ。湖北道按察使に転じ、省臣の贓事数十を発して聞かせると、帝はかつて勲労があったことから特にこれを原し、その党与を流した。州郡は治まったと称された。至元20年(1283年)、山北道按察使に遷った。その民は稼穡を知る者が少なく、姚天福は樹芸を教えみな蕃冨に至らせ、民は祠を建てて石に刻んでこれを紀した。
  • 至元22年(1285年)、刑部尚書に入り、まもなく揚州路総管として出た。至元26年(1289年)、再び淮西按察使となり、鉅奸一人を按劾しその家貲を没し、政化が大いに行われた。至元28年(1291年)、僧格が敗れると考訊した党援は平陽が最も多く、姚天福は平陽総管とされ窮治させられた。まもなく甘粛行省参知政事を拝したが母老を理由に辞した。
  • 至元31年(1294年)、陝西漢中道粛政廉訪使を授かり、まもなく真定路総管を除された。真定の駅伝の需は民害となることが多かったが、姚天福はその措置の方を改議し民を擾させないようにした。憲長がこれを争うと省臣がその事を上聞し、詔によりこれに従い、その制は天下の式として頒布された。大徳2年(1298年)、江西行省参政を授かったが疾により辞した。大徳4年(1300年)、参知政事大都路総管兼大興府尹を拝し、畿甸は大治した。後に京を尹めた者は姚天福を称首とした。
  • 大徳6年(1302年)、疾により卒した。享年73。初め姚天福が御史を拝したとき、その母は「古称『公爾忘私』、質を委ねて臣となったからには、その衷を尽くして職を塞ぐべきである。未亡人を憂いとせず、私に陵母死の日をなお生の年とするようにさせなさい」と戒めた。姚天福もまた憲府に「監察は言路を責とし犯すことがあっても隠すことはない。もし譴めを獲ることがあっても親の連座はどうか免じてください」と請うた。ある人がこれを帝に聞かせると、帝は嘆じて「巴爾斯母子は今の世に生まれても、その義烈の言は古人の中に求めるべきものだ」と言った。子の姚祖舜は秘書監著作郎、姚侃は内蔵庫副使。