元史卷一百六十八 列傳第五十五 劉宣

劉宣は字を伯宣といい、太原の人。国子祭酒許衡に理学を学び、江南平定に従軍して功があった。交趾・日本の再征に反対する上言で知られる。行台御史中丞として江浙行省丞相孟古岱の不法を糾弾したため誣告され、舟中で自剄して節に殉じた(至元25年・1288年没)。

年表(6件)

出自と江南平定への貢献

  • 劉宣は字を伯宣といい、その先祖は潞の人であった。出戍のため忻に留居し、金末に陝に避地し、後に太原に徙った。劉宣は沈毅清介で家にあっても孝友であり、幼くして読書を好み経世の志があった。宣撫の張徳輝は河東に至って彼を見て器重し、帰朝すると中書省掾に薦めた。劉宣は暇があれば国子祭酒の許衡に従って理学を講明した。初め河北河南道巡行勧農副使に命じられた。
  • 至元12年(1275年)、中書戸部郎中に入り、行省郎中に改まった。丞相の巴延・平章の拜珠に従い統軍として江南を平定し、賛画するところ居多であった。巴延はかつて劉宣に闕に詣でて捷報を上げさせ、世祖は召見し南征の事を親しく問い、応対は旨に称った。器服を賜り寵嘉した。江南が平定されると、劉宣に江淮の冗官を沙汰させ、その存廃はみな公論に合った。知松江府を除され、まもなく同知浙西宣慰司事となり在官5年、威恵ともに著しく、江淮行省参議に陞った。
  • 江西湖東道提刑按察使に擢けられ、至元22年(1285年)、入って礼部尚書となり、まもなく吏部に遷った。時にまさに交趾征伐が計画されており、劉宣は上言「連年の日本の役で百姓は愁戚し、官府は擾攘した。今春、江浙の軍民停罷が歓声雷のごとしと聞く。安南は小邦だが臣事することは長く、歳貢は期を愆ったことがない。辺帥が事を起こして興兵し、彼らはこれを避けて海島に竄れたので大挙して功なく、将士は傷残した。今また再征の令を下せば、聞く者は恐懼せぬ者はない。古より興兵には必ず天時を要する。中原の平土でさえ盛夏を避けるのに、交広の炎瘴の地は毒気が人を害することは兵刃より甚だしい。今、7月をもって諸道の兵を静江に会させれば、安南に至るまでに病死する者が必ず衆きだろう。緩急に敵に遇えばどう応じられるか。また、交趾には糧がなく水路が通じ難く、車馬牛畜による駄載もできなければ、陸運によるほかない。一夫が米五斗を担いで往還すれば、自食するほかに官が得るのはその半分にすぎず、もし10万石を用いるなら40万人を要し、わずか一二月の軍糧を賄えるだけである。船料軍需の搬載には5、60万衆を通用し、広西湖南の調度は頻数となり、民は離散が多く、戸令供役もできなくなるだろう。況んや湖広は溪洞に密迩し冦盗は常に多く、万一奸人が隙を伺い、大兵が一たび出れば虚に乗じて変を生じかねない。留後の人馬が疲弱衰老であれば変に応じ難い。彼の中の軍官で事体を深く知る者と万全の方略を論量すべきで、さもなければまた前轍を蹈むことになろう」と述べた。
  • 再び日本征討が計画されると、劉宣はまた上言し、その大略は「近ごろ再び征東行省を置き日本の師を再興することが議されているが、この役が息まなければ安危に関わる。索多(ソド)が占城を伐ち、哈雅(カヤ)が交趾を平らげ、数言のうちに湖広江西の供給・船隻・軍需・粮運で官民は大いに擾され、広東の群盗は並び起こり、軍兵は遠く江海の瘴毒の地に渉り死傷は過半に及んだ。既に連兵が未だ解けぬのに、しかも交趾は我と接境しながら蕞爾たる小邦であり、親王が兵を提げて深入したが未だ功を報じておらず、索多は賊に殺され自ら羞辱を遺した。況んや日本の海洋万里は疆土の濶逺、二国と比べられるものではない。今回、師を出し衆を動かし、風に遇わずとも彼岸に到達できたとしても、倭国は地広く徒衆猥多で、彼の兵が四集すれば我が師は援がなく、万一不利となって救兵を発したくても飛渡できようか。隋の高麗征伐では三次大挙し数見敗北し百万の師を喪った。唐の太宗は英武を自負し親ら高麗を征し数城を取ったが還って徒に追悔を増した。しかも高麗・平壌の諸城はみな陸地にあり中原から遠くないのに、二国の衆をもってなお克てなかった。況んや日本は海隅に僻在し中国と万里に隔たっているのに」と述べ、帝はその言を嘉納した。
  • 至元23年(1286年)12月、中書が旨を伝え鈔を更めて銭を用いるかを議すると、劉宣は「もともと交鈔の起こったのは漢唐以来かつてなかった。宋の紹興初年、軍餉が続かず、これを造って商旅を誘い沿辺の買売の計としたが、銅銭より賫擎しやすく民は甚だ便とした。少し滞礙があれば見銭を用い、なお古人の子母相権の意を存していたが、その法は益々弊れ、目前の速効を求めても良策が見えない。新鈔を必ず創造しようとすれば旧鈔を用いて権することになり、ただ名目を改めるだけで金銀の本作がなければ称提軍国支用は復た抑損されず、三、数年後にはまた元宝のようになるだろう。宋・金の弊はまさに殷鑒とすべきである。銅銭鋳造もまた秦・漢・隋・唐・金・宋の利病を詳究すべきで史策に著されており細かく述べるまでもない。国朝は銭の廃絶が久しく、一旦これを行えば功費は容易でなく遠計にならない。おおよそ民を利し物を権すには、その要は妄用せぬことから始まる。もし丘壑の用に済せようとすれば、鋳造が不足するだけでなく、久しからず自ら弊れるだろう」と献議した。時に僧格が尚書省を立てて国柄を専らにしようと謀っていたため、鈔議はついに罷まった。

孟古岱との対立と殉死

  • 至元25年(1288年)、集賢学士から行台御史中丞に除された。時に江浙行省丞相の孟古岱は悍戻縦肆で、常に台臣がその罪を紏言することを慮り、劉宣を特に忌んだ。ある日、御史大夫と中丞が建康城を出て軍船を点視すると、群御史が随行し、軍船で葦を載せている者がいた。御史の張諒がこれを詰問すると、行省官が使ったものと知れ、揚州に詣でて覆実したところ、孟古岱は盛怒し即座に報復を図った。時に大夫の父が属郡で官吏をしており随って按劾され、その党を建康に遣わして台中の違失を伺わせた。台官はみな竦懼して隠かに往いて解を懇求したが、劉宣だけは屹然として動じなかった。孟古岱の劉宣への怨みはいよいよ甚だしくなり、劉宣の子を揚州の獄に繋がせ罪を羅織し、また建康酒務・淘金等の官や罪により免ぜられた録事司官に、行台が銭糧を沮壊したと誣告させて朝廷に聞かせ、必ず重く死地に置こうとした。
  • 朝廷は官2員を遣わして行省に獄を置き鞫問させ、劉宣と御史6人を共に逮捕した。舟に登ると、行省は軍船で兵を列して衞し、これを駆迫し、着くと分けて各処に異らせ往来させなかった。9月朔、劉宣は舟中で自剄した。初め劉宣が行こうとしたとき、後事を書いて従子の自誠に緘み付し、開かないよう命じていたが、劉宣が死んだ後にその書を見ると「大臣を触怒し誣搆されて罪を成した。どうして経断の小人と交々弁訟し、怨家の前で屈膝して容れられようとできるか。身は台臣であり、義として辱を受けまい。当に自ら決するべきだが、ただ身をもって国に殉じられなかったことを恨むのみだ。嗚呼、天よ、実にこの心を鑑みよ」とあった。また別に孟古岱の罪状を記した公文があったが、その稿は後に得られたものの塗注勾抹され辞句が判読し難く、前治書侍御史の霍蕭がその文を叙次した。読む者はみな悲憤した。
  • 劉宣が引決した後、行省は朝廷に「劉宣は罪の重きを知って自殺した」と白したが、前後この事を搆成した者は郎中の張斯立であった。しかし劉宣の忠義節操は世に重んじられ、聞く者は嗟悼せぬ者はなかった。延祐4年(1317年)、従子の自持が劉宣の行実を上げ、御史台がこれを朝廷に聞くと、詔により資善大夫御史中丞上護軍を贈られ、彭城郡公に追封された。諡は忠憲。