元史卷一百六十七 列傳第五十四 呂戜

出自と学問

  • 呂□(字は伯充、河内の人。底本欠字だが、本文中の他所には「戜」と表記される)は七世祖の公緒が宋の丞相公著と従兄弟であった。祖父の呂庭は金末に乱を避けて郷里を去り、父の呂佑は帰附して初め兵籍に隷し、北郡に転徙してさらに関中に至り家を構えた。廉希憲が京兆を宣撫すると、許衡を招いて教授とし、生徒を集めた。呂戜は許衡に学び、許衡が国子祭酒となると、呂戜を伴読に挙げ、教育を成す功を輔けたのは最も多かった。

四川鎮撫の実務

  • 至元13年(1276年)、陝西道按察司知事に擢けられたが未だ赴任せぬうちに、宋の降者が「襄漢新附の民情は未だ安からず、呂子開という者がかつて襄陽制置司参謀官であり、退いて鄂に居り、宋の事をよく知るので登用すべきだ」と言った。朝廷が使者を遣わそうと議論したが人選に難儀した。ある者が「子開は旧名を偉金亂といい宋に入って改名し子開と字したが、呂戜とは従叔父にあたるので呂戜を遣わすべきだ」と言った。時に江淮の兵はなお収まっていなかったが、呂戜はこれを聞き慨然として行くことを請うた。子開が入覲し襄漢を安撫する便宜を陳べると、詔により翰林直学士に任じられたが辞して就かなかった。
  • 至元14年(1277年)、呂戜は四川行枢密院都事を授かった。時に宋の制置使の張珏が重慶を、安撫使の王立が合州を守っており、詔により枢府が兵を分けてこれを取らせた。李徳輝が西院事を成都で行い、王立の偵卒の張郃らを数人捕らえて殺そうとしたが、呂戜は「彼らがすぐ降らないのは、昔かつて命に抗した城が降れば誅されることを懼れているだけだ。今は張郃らを釈放し、王立に帰り諭させるべきだ」と言った。まもなく王立は果たして張郃らを蠟書を持たせて成都に遣わした。李徳輝が東院と共に受降することを請うと、後期にも至らなかったため、李徳輝は制を承け王立を留めて安撫使とし、倉を開いて民を賑わせ剽掠を禁じた。瀘州・敘州・崇慶・思播・夔州・万州等の郡はこれを聞いて相次いで欵を送り、巴・黔の民は李徳輝の恩恵に感じ並んでこれを祠り事えた。
  • 東院はその功のないことを恥じ、李徳輝が越境して功を邀めたと誣告し、王立を長安の獄に械して誅そうとした。呂戜はたまたま事があり京師に至り、許衡に事情を告げると、許衡は留守の賀仁傑に白し、王立の釈放を奏させ、金虎符を賜って旧官のままとした。呂戜もまた四川平定の功により詔により金織衣・弓刀・鞍勒・白金を賜り、奉訓大夫四川行省左右司郎中に陞った。

地方官と晩年

  • 至元19年(1282年)、同知順慶路総管府事に調され、疾により辞した。至元20年(1283年)、国子司業に徴されたが、喪が終わっていないことを理由に辞した。至元30年(1293年)、華州知州に改まり、勧農興学に成果があり、代わる際に民が争って留めた。
  • 大徳中、河東・関隴の地震が月余り止まなかったため、呂戜は集賢学士の蕭㪺と各々問答を数千言設けてその理を究め、廟堂に書を移し救災弭患の道を陳べた。仁宗が即位すると召され翰林侍読学士を拝した。時にまさに科挙の実施が議論されており、呂戜は「経明行修質而少華、これは士だけの実行にとどまらず、国家は真才を得て治平に登らせるべきだ」と言った。
  • まもなく致仕した。延祐元年(1314年)、使者を遣わし駅を給わって関中に送り返した。同年12月、疾により卒した。享年78。陝西行省参知政事を贈られ、東平郡公に追封された。諡は文穆。子3人は杲・果・楨といい皆顕仕した。孫の魯は済寧路総管。