元史卷一百六十三 列傳第五十 馬亨

出自と若年期の官途

  • 字大用、邢州南和の人。農家の出で母に孝を尽くした。金末に吏となり、庚寅(1230年)太宗が十路徴収課税使を設けた際、河北東西路使王晋に掾として辟された。甲午(1234年)王晋の推薦で中書令耶律楚材に転運司知事に任じられ経歴を経て転運司副使に昇進。
  • 庚戌(1250年)、太保劉秉忠の推薦で世祖の潜邸に召見され重用される。諸路の戸口を籍する任務で巴沁孟克を補佐して西京・太原・平陽・陝西五路を撫諭し、山川の形勢図を献じた。他の使者の多くが賄賂で失脚する中、馬亨らは衣を賜るのみで清廉を保った。
  • 癸丑(1253年)世祖の雲南征討に従い京兆権課所の長官となる。京兆は藩邸の分地であったが寛簡な統治を五年続け、民を安んじつつ課税も充実させた。

冤罪と地方統治

  • 丁巳(1257年)、憲宗の使者アルタルらが藩府の銭穀を調べる際、馬亨は歳の課銀を輸送中に道でアルタルらと遭遇。銀を差し出せば拘留され、避ければ罪に問われると判断し、王府の利益を優先してあえて避けた。アルタルは激怒して逮捕させたが、世祖は馬亨を慰め、拘留・厳しい追及にもかかわらず何も罪を得られず、世祖は銀三十二鋌を改めて賜った。
  • 己未(1259年)、世祖の鄂州攻めから北還した後、西京等の徴兵を停止し山西河東陝西漢中を撫諭。中統元年(1260年)世祖即位後、陝西四川に宣撫司が立てられ議に参加、金符を賜り陝西四川規措軍儲転運使となる。アルタルらの叛乱の際は廉希憲・商挺と謀り劉太平らを誅して関輔を平定した。
  • 興元の畜糧を大安軍に転送する際、丁憂中でも起用され兵官・丁産に役を均等分担させ迅速に完成させた。興元判官費正寅の不法を糾そうとしたが逆に讒言され行省に異謀の疑いをかけられるも、審理の結果無実が証明された。

尚書省での献策と晩年

  • 至元4年(1267年)陝西五路西蜀四川廉訪都転運使、考課による改革で転運司が総管府に併合され解任されかけるも、工部侍郎解塩副使に任じられ「一律に廃止すれば信賞の意義が失われる」と上言し復権させた。
  • 東宮保傅の人選、中書の儒臣登用、宰相定員の削減(当時十七員に膨張していた)、豪貴子弟偏重の是正、六部体制の整備、既定の便民条画の徹底など六事を上奏。「新自陝西来覲」と応じ帝は今後遠出させないと約した。
  • 至元3年(1266年)嘉議大夫左三部尚書、のち戸部尚書。アハマドが交鈔の交換を私する利権化を図った際「法を主上の権柄とすべきものを一商人が擅にすれば天下に令が行き渡らない」と諫めて阻止した。常平義倉の設置を主張し、財源不足のため義倉7か所のみ設置に留まる。
  • 至元7年(1270年)尚書省が立てられ左部の尚書となるも銓選権を中書に戻すべきと自ら進言、アハマドに疎まれ誣告で罷免。国兵の襄樊包囲時、河南行省の兵餉調達に僉省として当たり水陸供給を絶やさなかった。至元10年(1273年)還京、まもなく病を得て14年(1277年)71歳で没した。子紹庭は雲南諸路粛政廉訪司副使。