出自と金末の苦難
- 字輝卿、冀寧交城の人。若くして学問を志し郷挙にも数度及第。金の貞祐年間の兵乱で家業が傾いた。御史台の掾となり、盗みで殺された占い師の事件で無実の僧が拷問により誣服させられたのを見抜き、後に真犯人が捕らえられて疑いが晴れた。趙秉文・楊慥にその才を評価される。
- 金滅亡後、史天澤の開府に招かれ経歴官となる。天澤の南征に従い調発を取り仕切り、逃亡兵の処刑を諫めて止めさせた。光州の農民が山寨に立てこもった際は攻撃より招降を主張し、多くの命を救った。
世祖への進言
- 丁未(1247年)、世祖がまだ潜邸にあった頃に召見され、孔子の道と聖人の性の議論、遼が仏教で衰え金が儒教で滅んだという説への反論(「金の宰執に儒臣は少なく、国の存亡は儒者の咎ではない」)を述べた。
- 世祖から祖宗の法度で未整備な事についてどうすべきか問われると、徳輝は銀盤の比喩で「創業の主は器を作るが、これを守り伝えるには謹厚な者に司らせねば欠壊し盗まれる」と答え、世祖を深く感銘させた。中国の人材として魏璠・元裕・李冶ら二十余人を推挙した。
- 農民の労苦と重税の弊を説き、孔子廟の祭祀について「崇めるかどうかは聖人に損益なきも、時の君の崇儒重道の意を示すもの」と説き、世祖は以後この礼を廃さぬことを約した。兵権と民政のどちらが害が大きいかを問われ「民政の失は水火のごとく害が大きい」と答え、宗族の賢者に兵権を、勲旧の者に民政を任せるべきと提言した。
- 帰郷に際し白文挙・鄭顕之ら数人を推薦し、孝友・人材登用・下情視察・兼聴・君子親愛・信賞必罰・節財用の七事を陳言。壬子(1252年)、元裕とともに世祖に儒教大宗師の号を奉り受け入れられ、儒戸の兵賦免除を求める旨も伝え認められた。真定学校の提調を命じられる。
地方官としての善政
- 世祖即位後、河東南北路宣撫使に起用。豪強を挫き贓吏を退け賦役を均し、老人たちが「六十年ぶりに太平の官府を見た」と喜んだ。西川の帥納琳による重税兵の負担や、防戍兵の重複計上などを条奏して是正させた。
- 至元初、考績で十路中最上位となる。厳保挙・給俸禄養廉・易世官遷都邑・正刑罰勿屢赦の四事を上奏、東平路宣慰使に転じ、旱魃に泰山で祈って雨を得た。重税や無理な賦課を止め、孀婦の逋賦を自らの俸禄で肩代わりして免除した。
- 至元3年(1266年)参議中書省事、5年(1268年)侍御史に擢されるも辞退。将校の虚偽の軍籍冒代を糾弾する上奏、御史台の条例を議するよう命を受け「法令が未だ明らかでないうちは行いにくい」と慎重を説きつつも実行を求められ、宗正府を立て皇族外戚の不正を糾すよう建言した。
- 引退を願い出て風憲の任に堪える人材烏庫哩貞ら二十人を推薦。河東の飢饉と不均衡な賦役を実地調査し数十年来の弊を一挙に改革した。剛直博学で経済の器量を持ち、喜笑を好まぬ人柄で知られ、元裕・李冶と共に龍山三老と称された。80歳で没した。