元史卷一百六十 列傳第四十七 劉肅

金末の獄事弁護と邢州治政

  • 劉肅、字は才卿。威州洺水の人である。金の興定二年(1218年)詞賦進士に及第し、尚書省令史となった。当時、内蔵の官羅の珠が盗まれ、盗が捕まらないうちに珠の売買を担う牙儈や蔵吏で誣服させられた者が十一人あり、刑部はこれを皆極刑に処す議をした。肅はこれを執って「盗には正贓(確たる証拠)がない。彼らを殺すのは冤罪である」と主張した。金主は怒り、ある近侍が夜、肅を見てその旨を伝えたが、肅は「冤罪を弁明するのは私の職である。一身を惜しんで十一人の命を戕ってよいものか」と言い、翌日省に詣でて弁論を益々力強くした。右司郎中の張天綱は「私がそなたのために奏を具えて弁析しよう」と言い、奏が入ると金主は悟り、囚人は死を免れた。
  • 新蔡令に調された。以前、この県の賦は牛の多寡で差をつけていたため、民は牛を隠して耕さなかった。肅が至ると、家畜を多く飼う者に賦を加えないよう命じたので民は次第に殷富になった。淮に瀕する民で宋の境に竄入し兵籍に登録され糧を優遇されている者がおり、時に帰る者があって衣食に艱しみ「淮を渡ればよかった」と怨みごとを言った。ある者がこれを謀叛として告げたが、肅は「淮は宋境を隔てる一つの水に過ぎない。果たして叛きたければ難しくない。行けばよいだけだ。口では言っても心に実がない」として律に照らして杖八十とすべきと奏し、可とされた。継いで戸部主事に抜擢された。
  • 金が亡ぶと東平の嚴實を頼り、行尚書省左司員外郎に招かれ、また行軍萬戸府経歴に改まった。東平の歳賦の絲銀に加えて綿十万両・色絹一万疋を輸させられたが、民はこれに堪えず、肅は實を助けてこれを奏罷させた。
  • 庚子(1240年)年、世祖が潜邸にあった時、肅を邢州安撫使とし、肅は鉄冶を興し楮幣(紙幣)を行い、公私がこれに頼った。中統元年(1260年)、真定宣撫使に抜擢された。当時、中統新鈔が施行され旧鈔銀の使用が禁じられたが、真定では銀鈔を外に流通させていたものが八千余貫あり、公私が囂然として対処に困っていた。肅は三策を建てた。一に旧鈔をそのまま用いる、二に新旧を併用する、三に官が新鈔で数どおりに旧鈔を交換する、というもので、中書はその第三策に従い、鈔五十万貫を降した。
  • 中統二年(1261年)、左三部尚書を授かり、官曹典憲の多くを議定し、まもなく中書省事を商議した。中統三年(1262年)、致仕して半俸を給せられた。中統四年(1263年)、卒した。享年七十六。肅は性質が舒緩で執守があり、かつて諸家の易説を集めて「読易備忘」を著した。後に推忠贊治功臣・榮祿大夫上柱國・大司徒を贈られ、邢國公に諡文獻。子の憲は禮部侍郎、慤は大名路総管、孫の賡は翰林学士承旨。