元史卷一百五十七 列傳第四十四 劉秉忠

劉秉忠、字は仲晦、初名は侃、法名子聡。邢州の人で、若くして出家し僧となったが世祖に見出され側近として仕えた。中統改元・大都造営・国号「大元」制定など元朝の制度整備の中心人物であり、宰相格の太保となった儒臣。至元十一年、病もなく端坐したまま没した。年五十九。

年表(9件)
  • 庚辰年父潤が邢州都元帥府の都統となる
  • 癸丑年世祖の大理征討に従う
  • 己未年世祖の宋討伐に従う
  • 中統元年世祖即位に際し治国安民の策を献じ、中書省が立てられる
  • 至元元年光禄大夫・太保に拝され、中書省事に参預する
  • 至元四年中都の築城を命じられる
  • 至元八年大元の国号を建てるよう奏し、中都を大都とする
  • 至元十一年八月病もなく端坐したまま卒す。年五十九
  • 至元十二年太傅を贈られ趙国公に封じられる

出自と出家

  • 劉秉忠、字は仲晦、初名は侃、仏門に入り子聡と名乗り、拝官後に今の名に改めた。その先祖は瑞州の人、代々遼に仕え官族であった。曽祖父は金に仕えて邢州節度副使となり、そこで家を構えた。父の澤以下は邢の人となった。庚辰年、穆呼哩が邢州を取り都元帥府を立てると、父の潤は都統として事にあたった。定めて州録事に改め、鉅鹿・内丘両県の提領を歴任し、至る所で恵愛があった。
  • 秉忠は生まれつき風骨秀異で志気は英爽、束縛されなかった。八歳で学校に入り一日数百言を暗誦した。十三歳で帥府の質子となり、十七歳で邢台節度使府の令史となり親を養った。常に鬱々として楽しまず、ある日筆を投げて嘆いて「我が家は代々衣冠の家柄なのに刀筆吏に埋没してよいものか。丈夫たるもの世に遇わなければ隠居して志を求めるべきだ」と言い、すぐに官を棄てて武安山に隠れ住んだ。しばらくして天寧の虚照禅師がその門人を遣わして招き、僧となり文詞をよくすることから書記を掌らせた。後、雲中に遊び南堂寺に留居した。

世祖への奉仕と上書

  • 世祖が潜邸にあった時、海雲禅師が召しに応じて雲中を通過した際、秉忠の博学多藝を聞いて共に行くよう招いた。世祖に謁見すると応対は意にかない、しばしば顧問に預かった。秉忠は書物を読まぬものなく、特に易経及び邵氏経世書に精通し、天文・地理・律暦・三式・六壬・遁甲の類にも通じないものはなく、天下の事を論ずること掌を指すようであった。世祖は大いに彼を愛した。海雲が南へ帰った後も秉忠は藩邸に留まった。数年後、父の喪に赴くにあたり金百両を葬具として賜り使者を邢州まで送らせた。喪が明けると再び召され旨を奉じて和林に還った。
  • 上書して数千言を論じ、その大略に「典章礼楽・法度・三綱五常の教えは堯舜三王において備わり、三王の後に五覇がこれを廃した。漢が興ってから五代に至るまで千三百余年、この道によった者は漢の文帝・景帝・光武帝、唐の太宗・玄宗の五君のみで、玄宗もまた瑕疵がなかったわけではない。治乱の道は天にかかり人によるものであるが、青吉斯皇帝が一旅を起こして諸国を降し、数年で天下を取り、勤労憂苦して大宝を子孫に遺され、末永く無疆の福を伝えられるであろう。以て馬上で天下を取ることはできても馬上で天下を治めることはできないと聞く」と述べた。
  • 続けて周公の故事を引き「昔武王は兄、周公は弟であった。周公は天下の善事を思い夜を日に継いで、一つの事を得るごとに座して朝を待ち、それによって周室を匡し周の天下を保つこと八百余年に及んだ、それは周公の力である。今、君上(漢の兄)は兄、大王(世祖)は弟である、周公の故事に倣って行うことは今この時をおいて千載一遇の好機である」と説いた。
  • 秉忠は続けてさまざまな献策を並べた。曰く、内では宰相が百官を統べ万民を教化し、外では将が三軍を統べて四方を安んずるのが最重要であり、天下は広大で一人・一心では及ばぬので開国功臣の子孫を京府州郡の監守に配し、按察官を差わして治者の昇黜を行うべきである。天下の戸数は百万を超えるが差徭・軍馬調発・使臣の煩擾で民が耐えられず逃亡しているので、旧来の負担を半減もしくは三分の一減じて、逃亡した者を招いて復業させ、税を定め直すべきである。官吏の昇進の秩序を古例に照らして定め、俸禄・儀仗の制度を整えて身分に見合った暮らしを与え、罪を犯した者には条を定めて明確な罰を科すべきである。今、百官が威福を専らにして生殺を意のままにしているのは正すべきである。教化がまだ行われていない民には、死刑にあたらぬ囚人を赦し、教令を示して畏れを知らせ、死罪は覆奏を経てから決すべきである。
  • また、国と民の関係、府庫・倉廩の必要、債務・虚契の処理、駅路の負担軽減、市場の税率、量目の統一、金銀珍宝の濫用の禁止、章服の制限、勧農官の設置、学校の再興と科挙の実施、開国功臣の子孫の教育登用、県宰の人選、闗西・河南の招撫、塩鉄酒醋等の課税の適正化、鰥寡孤独廃疾者への孤老院設置、使臣の宿泊制度、孔子祭祀の維持、礼楽器具の整備、暦の改訂、金史の編纂、名士・宿儒への配慮、人材登用の理念、諫言を受け入れる開かれた言路、君子と小人の弁別、笞箠の制度、私牢の禁止、鞭背の刑の禁止、朝省の確立など、多岐にわたる献策を行った。世祖はこれを嘉納した。
  • また邢州について「旧は万余戸であったが兵乱以来数百戸に満たない、良牧守を得て治めさせれば復興できる」と進言し、朝廷はすぐに張耕を邢州安撫使、劉肅を副使に任じた。これによって流民は復業し、邢は昇格して順徳府となった。癸丑年、世祖の大理征討に従い、翌年雲南征討に従い、常に天地の好生の徳・王者の神武不殺を諭したため、城を克した日にみだりに一人も殺すことがなかった。己未年、宋討伐に従い、雲南で言ったことを力を尽くして上に説き、全活した者は数えきれなかった。

中統改元と国制整備

  • 中統元年、世祖即位後、天下を治め民を養う良法を問われ、秉忠は祖宗の旧典を採り古制で今に宜しいものを参酌して条列して奏上した。これにより詔で建元紀歳、中書省・宣撫司が立てられた。朝廷の旧臣・山林の遺逸の士は皆録用され、文物は一新した。秉忠は左右にいながらもなお旧僧服を改めず、時の人は「聰書記」と呼んだ。
  • 至元元年、翰林学士承旨王鶚が「秉忠は久しく藩邸に侍し、多年帷幄の密謀に参与し、社稷の大計を定めた忠勤の功績があるので、褒め崇めるべきです。聖明が御極され万物が新たになったのに、秉忠がなお野服・散号のままであるのは深く憂うるべきです、その衣冠を正し顕秩に崇めるべきです」と奏上した。帝はこれを読み、即日光禄大夫・太保に拝し中書省事に参預させた。詔で翰林侍読学士竇黙の娘を娶らせ、第を奉先坊に賜り、少府宮籍監の戸を給した。
  • 秉忠は命を受けて以来天下を己の任とし、事に大小なく国家の大体に関わることは知れば必ず言い、言えば必ず聴かれた。帝の寵任はますます厚く、閑暇に顧問を受けるたびに人物を推薦し、彼が抜擢した者は後にみな名臣となった。
  • 帝は秉忠に桓州の東、灤水の北の龍岡に城郭の地相を見させ、三年を経て完成させ開平と名付け、後に上都に昇格させ燕を中都とした。四年、また秉忠に中都の築城を命じ、宗廟・宮室を建て始めた。八年、大元の国号を建てるよう奏し中都を大都とした。その他、章服の頒布・朝儀の興し・俸禄の給与・官制の制定はすべて秉忠から発し、一代の成憲となった。
  • 十一年、上都に扈従し、その地に南屏山があり精舎を築いて居住していた。秋八月、秉忠は病もなく端坐したまま卒した。年五十九。帝はこれを聞いて驚き悼み群臣に「秉忠は朕に事えること三十余年、小心慎密で艱険を避けず、言に隠情がなかった。その陰陽術数の精妙、事を占って未来を知ることはあたかも符契を合わせるようで、これは朕だけが知るところで他人が知ることはなかった」と言い、内府の銭を出して棺歛を具え、礼部侍郎趙秉温を遣わして喪を護送し大都に葬らせた。十二年、太傅を贈られ趙国公に封じられ諡は文貞。成宗の時、太師を贈られ諡は文正。仁宗の時、さらに常山王に進封された。
  • 秉忠は幼少から学を好み老いても衰えず、位は人臣を極めながらも簡素な住まいに粗食して終日澹然とし、平生と変わらなかった。自ら藏春散人と号し、常に吟詠して自ら楽しみ、その詩は蕭散閑淡で人柄そのままであった。文集十巻がある。子はなく、弟の秉恕の子蘭璋を後継とした。

劉秉恕――清廉と地方官としての善政

  • 秉恕、字は長卿、読書を好み弱冠で劉肅に易を受け理学を明らかにした。兄の秉忠が世祖に仕え人材推挙を自任していたが、私親を憚って独り秉恕には及ばさなかった。左右が秉恕のことを世祖に奏上したことで召見され、同じく潜邸に仕えることとなった。世祖がかつて秉忠に白金千両を賜った際、秉忠は「臣は山野の鄙人、僥倖にも遭遇し得た服器は皆尚方から出たもの、金は用いる所がありません」と辞退したが、世祖は「卿には親戚がいないのか」と言い、辞退を許さなかったため受けてこれを分配し、二百両を秉恕に与えた。秉恕は「兄は多年勤労し賞を受けるにふさわしいが、私には冒すべき功がない」と最後まで受けなかった。
  • 中統元年、礼部侍郎・邢州安撫副使に擢用され、二年金符を賜り吏部侍郎に遷り、三年邢が順徳府に昇格すると金虎符を賜って順徳安撫使となった。至元元年官法が改められ嘉議大夫に改まり、彰徳・懐孟・淄萊・順天・太原の五路総管を歴任した。淄萊府では死刑囚六人の裁決がすでに定まっていたが、秉恕はこれを疑い詳しく調べ直させ、その真相を得て六人は死を免れた。他の任地でも皆善政を行い、召されて礼部尚書を経て淮西宣慰使に出、まもなく省宣慰司に合わせられ湖州・平陽両路総管を歴任した。平陽で歳荒れ民が食に困った際は倉を開いて賑わせ、多くの民を救った。年六十で官にあって卒した。