出自と釣魚山攻城
- 李進、保定曲陽の人。幼くして軍籍に隷し、初め万戸張柔に従って杞の三乂口に屯した。当時西山の西九十里に龍岡という地があり宋の境であった。歳庚戌春、張柔が兵を引いて岡上に堡を築いた際、淮水が氾濫し宋の舟師が急に至った。主帥察罕が軍を率いて迎撃したとき、進は兵十五人で一舟に乗り十余里転戦し、巨艦一隻を奪って百戸に陞った。
- 戊午、憲宗の西征に際し、丞相史天沢が当時河南経略大使であり、諸道の兵の中から驍勇な者を選んで従わせ、進を総把に任命した。同年秋九月、陳倉を経て興元に入り米倉関を渡ったが、その地は荒れて塞がれ通じなかったため、進は木を伐って七百余里の道を開いた。冬十一月、定遠七星関に至った。その関の上下には連続する堡が築かれ、宋の兵五百人が守っていた。巴渠江の水がその堡の東を巡って流れていた。
- 天沢は進に関下に赴き降伏を説くよう命じたが従わず、進は密かに間道を視て天沢に「あれは奪取できます」と報告した。その夜二鼓、天沢は進に勇士七十人を率いさせて不意を襲わせ、門枢を外して二十人が入ったが、守門者が気付いて刀を抜いて抗い、進は傷を負ったが構わず、懸門を挙げられて閉じ込められた。諸軍は入ることができなかったが、進と二十人は力戦し三十人を殺傷し、宋兵は上堡へと逃げた。進は懸門を毀って諸軍を入れ、上堡まで追撃し殺傷が更に増え、宋兵は敵し切れず逃走した。夜が明けようとする頃、進はついに堡を得て守り、関路がようやく通じ、諸軍は全て渡ることができた。進はこの功で上賞を受けた。
- 己未春二月、天沢の兵が行在所に至り合州釣魚山寨を包囲した。夏五月、宋が嘉陵江から舟師で来援し、まず三槽山の西で大戦し、六月山の東で戦って戦功を挙げた。秋七月、宋の戦船三百余が黒石峡東に停泊し、軽舟五十を前鋒とし、北軍の船七十余が峡西に停泊し一里ほど離れて相対した。帝は東山に馬を立て兵二万を擁して江を挟んで陣していた。天沢は衆に号令して「私の鼓を聞き旗を見よ、少しも怠るな」と言った。しばらくして鼓声が聞こえ旗が東を指すと諸軍は鼓譟して突入し、一戦目で宋の前鋒は潰走し、戦艦も続いて乱れ、順流に乗じて追撃、死者は数え切れなかった。帝は諸将を指して「白旗の下、紅い半臂を着て突き進んだのは誰か」と問い、天沢が進の名を答えると錦衣・名馬を賜った。八月また浮図関で戦い、前後五戦すべて功を立て上賞を受けた。
晩年
- 世祖即位後、侍衛親軍に入る。中統二年、総把を宣授され銀符を賜る。三年、李璮征討に従って功を立てる。至元八年、襄陽に赴く。十二年、湖北湖南の攻略に従い、宋平定後は兵馬使として兵を分けて鄂州に屯した。十三年、軍三千を率いて河西の中興府で屯田した。十四年、武略将軍を加え千戸に陞る。十五年、六盤山に屯を移し武毅将軍を加え金符を賜る。十七年、明威将軍・管軍総管に陞る。十九年、虎符を賜り懐遠大将軍に進み、西域の巴実伯里の屯田を命じられる。
- 二十三年秋、海都及び都勒斡らが洪水山に至った際、進はこれと力戦したが衆寡敵せず軍は潰え、進は捕らえられたが綽巴爾に至って逃げ帰り、和州に至って潰兵三百余人を収め、戦いながら進んで京師に還った。金織紋衣二襲・鈔一千五百貫を賞された。二十五年、蒙古侍衛親軍都指揮使司僉事を授かり、翌年左翼屯田万戸に改授された。元貞元年春卒した。子の雯が職を襲い武徳将軍・左翼屯田万戸に任じ虎符を佩びた。皇慶二年、宣武将軍を加える。延祐六年、仁宗はその父進がかつて北征で捕らえられたことを念い、特に雯に中統鈔五百錠を賜って慰めた。泰定元年春、病により辞し、子の多爾済が跡を襲った。