易州の武将と名臣
- 何伯祥は易州易県の人。金から張柔に従って帰順、太祖の河朔平定に貢献。保定の頑強な守将子昌を素手で捕らえるなど武勇を示し、汴梁・洛陽・帰徳・蔡州の攻略に参加、易州等処軍民総管となった。丁酉年宋討伐で三十余の柵を陥落させ、司空寨での機略で敵の追撃を破るなど活躍。世祖の南伐に軍事顧問として参画し軍中で没。儀同三司・太保・上柱国を贈られ易国公を追封、諡は武昌。子は瑋。
- 瑋は父・兄の職を継ぎ亳州鎮守、襄樊攻略で夏貴の来援を退け、丞相巴延の宋征討では陽羅堡で先渡し、丁家洲では宋丞相賈似道の水軍を破り舟千余艘を奪った。宋平定後は太平路軍民達嚕噶齊、江浙按察使、大名路総管、湖南宣慰使等を歴任し、至元三十一年(1294年)中書参知政事となった。当時十一人もいた宰執の多さを批判して精選を求めたが容れられず辞任を願った。
- 大徳四年(1300年)侍御史、大徳七年(1303年)御史中丞となり十条の要務を上奏。孔子廟建立に際し国学の併設を建言。姦党の復権に反対し、御史郭章の冤罪を弁護して救った。成宗崩御後の廟議・摂政議で「義に死すとも義を恐れず」と直言。武宗即位後は太子副詹事、平章政事等を歴任し、汴省事重視・屯田督励の任にあたり、河南行尚書省平章政事のまま没。太傅・開府儀同三司・上柱国を贈られ梁国公を追封、諡は文正。