元史卷一百四十九 列傳第三十六 王珣

遼東の元帥父子

  • 王珣、字は君寶。本姓耶律氏、遼の大族の後裔で契丹斡罕の乱を避けて義州開義に移り王氏を称した。武力人に絶え撃鞠にも長じた。乙亥年太師穆呼哩に帰順し、元帥兼義川二州事となる。丙子年張致の乱で興中が叛いた際、留守中に家族が皆殺しにされる悲劇に遭ったが、帝は「彼の族属・城邑・人民は必ず汝に付する」と論して慰め、五年間の徭賦免除を約した。
  • 珣は開義を奪還し伯傑を殺し、致の部将高益を降した際、致の家のみを誅して他は全て釈放した。丁丑年金虎符・金紫光禄大夫を賜り兵馬都元師鎮遼東便宜行事となり、義州で誅殺による威圧策よりも恩信を説く姿勢を貫いた。甲申年正月没。享年四十八。諡はなく、子四人、榮祖が襲爵。

  • 榮祖、字は敬先、珣の長子。沈着で武勇があり、父の帰順時に人質となった経歴を持つ。父の死後、崇義軍節度使・義州管内観察使を襲い、金の宣撫使布希萬努の反乱鎮圧に功、蓋州・宣城等の攻略で戦功を重ねた。降人の扱いについて薩里台の屠殺を諫めて放免させ、義人への反側の讒言に対しては駅馬で直接弁明して事なきを得た。

  • 高麗遠征では諸城を攻略し高麗王の降伏を導き、平壌鎮守中は屯田を興して諸島嶼を平定、高麗世子倎の入朝を実現させた。中統元年(1260年)沿辺招討使兼北京等路征行万戸を授かり、病により没。享年六十五。子十三人、うち六人が顕職に就いた。