穆呼哩配下としての軍功
- 史天祥、父懐徳は尚書秉直の弟。癸酉年(1213年)秉直に従い涿で太祖に降り、懐徳は黒軍を、天祥は都鎮撫として降卒二百人を率いて丁壮を招集し一万余を得た。霸州・文安・大城・滄濱・長山など二十余城、東の淄・沂・密三州を攻略、燕攻めにも従軍した。
- 高州攻略、金将完顔呼遜の捕縛では「一人を殺しても敵を利するだけ、降時の約束を守るべき」と説き千戸として登用させた。父懐徳が城攻めで流矢に当たり戦死すると、その黒軍を継いで攻勢を強め、北京留守を降し磨雲山の諸砦を招撫し数万の民と八千の兵を得た。
西夏遠征と晩年
- 五指山の抵抗を鎮圧し西山総帥・興州節度使、趙守玉の反乱を穆呼哩と分担して平定。達魯の反撃で穆呼哩が負傷した際は救援して大敗させ、中興府を克した。錦州の張致の乱平定、契丹漢軍による関肅奪還、多数の山寨攻略に従軍した。
- 丙子年(1216年)太祖に謁見し提控元帥に任じられ、鎮国上将軍・利州節度使を経て武平の山賊祁和尚を討伐、興州の車河で盗賊一万を殲滅。己卯年(1219年)兵馬都元帥として河東平陽・河中・岢嵐等八十余城を攻略。
- 庚辰年(1220年)真定の武仙攻略で「まず招諭してから攻めるべき」と提案し降伏させた。天倪が河北西路兵馬都元帥、天祥が左副都元帥に任じられ、邢西の要害を完顔呼遜と黒軍で奇襲し武仙を驚愕させ、邢・磁・相三州を降した。
- 東平攻略の激戦、青龍金勝諸堡攻略での屠城反対、綏徳・鄜坊等五十余城の攻略を重ね、癸未年(1223年)金虎符・蒙古漢軍兵馬都元帥・十二万戸の統率を賜り河中を鎮めた。西夏遠征で賀蘭山を攻略した際は矢傷で失明の危機に瀕した。
- 太宗に謁見し致仕を願うも許されず、河南出兵の輸送を担当、太宗の南征では汴京の百工を統率した。若い頃に受けた矢傷が再発する中、海濱・和衆・利州の総管や霸州御衣局人匠都達魯噶齊を歴任、憲宗即位後も旧職に留まった。戊午年(1258年)九月、享年六十八で没した。長身で力に優れ、酒を好まず稼穡・施与を喜ぶ人柄であった。晩年失明しても憂国愛民の志は絶えなかった。子の彬は江東提刑按察副使、槐は霸州御衣局人匠都達嚕噶齊を継いだ。