地方官としての実務手腕
- 伊嚕布哈、字は彦明、蒙古蘇達蘇氏。容貌魁偉で将来を嘱望され、父図卜特穆爾は千戸として越に戍った縁で韓性に師事し文才を発揮。江浙郷試右榜第一を経て元統元年(1333年)進士及第、台州路録事司達嚕噶齊として孔子廟を建立し儒学振興に努めた。
- 行都水監経歴、広東廉訪司経歴、都水監丞を経て集賢待制、吏部員外郎として江浙での糴粟にあたり、公平な徴発で民の負担を軽減した。太師右丞相托克托の南征に従い糧餉督察を担当、吏部郎中、監察御史として郊廟の礼を整えるべきこと、皇太子輔導の重要性を上疏。
保定の民政と海上での殉節
- 吏部侍郎として江浙の銓選を公正に行い、河間長蘆での軍船建造計画の非を上言。保定路達嚕噶齊として糧輸の負担軽減、盗賊防衛のため団結義軍を組織し賊を撃退。父老の懇願により尚書のまま郡事を兼任し続けた。
- 大都路達嚕噶齊、翰林侍講学士を経て再び大都路達嚕噶齊。帝より民を撫する任を受け「威を峻しくせず法を弛めず」との勅諭を得た。江南行御史臺中丞として浙西の政治を担い、張士誠の浙西僭称に際しては木櫃に身を隠して脱出し慶元まで逃れた。
- 山南道廉訪使として海路で赴任中、鉄山で倭賊に遭遇し「朝廷の重臣が賊に拝礼などできぬ」と拒んで殺害された。従者の諾海が首賊を刺殺、子の羅阿や姪の伯嘉努も奮戦し殉死、同舟の死者八十余人に及んだ。攄忠宣武正憲徇義功臣・銀青栄禄大夫・遼陽等処行中書省平章政事・上柱国を追贈され諡は忠粛。