孝行と学業
- 廉和斯哈雅、字は公亮。博羅哈雅の孫、廉希憲の従子。父阿哩衮哈雅は広徳路達嚕噶齊。幼くして孤児となり父を偲んで泣き、母を養いながら貧に耐えた。母の喪では風濤の中で渡江中に「母を先祖に祔葬させねば」と天を呼び、風が止んだという逸話が残る。
- 「伯父希憲は儒学によって廉孟子と称された。今まさに科挙が始まる、読書して科第を目指したい」として宿衛への出仕を辞退し国学に入った。至治元年(1321年)進士及第、承事郎同知順州事として弓匠提挙満達勒の田地横領を摘発した。
風紀官としての活動
- 史館で『英宗実録』『仁宗実録』の編纂に参加後、監察御史として中書省の大臣の貪汚を弾劾。明埓棟阿の太廟摂祭の不当性も弾劾した。都水監として通河堤・灤漆二水・京東閘の修築を主導し、会福総管府治中として二月の迎仏行事の浪費を批判した。
- 淮東廉訪司事、江浙行省左右司員外郎、河東・河南・江西廉訪司事、江南行御史臺経歴を歴任。山東塩法の乱れを都転運使として一年足らずで立て直し、褒賞を受けた。至正三年(1343年)郊礼再開に際し侍儀使、翌年遼金宋三史編纂に参加。
晩年の官歴
- 崇文太監から河南行省右丞に至り、決河修治の民への負担を上言したが用いられず、湖廣行省右丞として武昌失守の連座を経験するも後に雪冤。江西行省右丞として賊に陥落した郡県の奪還を平章政事司徒道通と協力して図り、廉訪使を経て江西省治陥落後は福建に避難。
- 江浙行樞密院事、福建行省右丞として延平・邵武を鎮め、海道による京師への貢租供給に貢献した。行宣政院使、翰林学士承旨知制誥兼修国史を経て享年七十一で没した。