経筵での治道の進講
- 庫庫、字は子山、喀喇氏。父博古密に伝あり。祖雅克章は世祖の従征に功あり。国学で許衡や父兄の学統を受け継ぎ、宿衛から集賢待制、兵部郎中、秘書監丞、監察御史などを歴任、礼部尚書として羣玉内司を厳格に管理した。
- 江南行臺治書侍御史、奎章閣学士院承制学士、翰林学士承旨知制誥兼修国史などを経て、文宗に聖賢の格言を講じ、順帝にも経筵で師のように仕えたが師礼を辞退した。柳宗元の梓人伝や張商英の七臣論を引いて講義し、古名画を用いて商王受の故事や宋徽宗の失政を説いた。
- 天変・民災に際しては帝に「天心は人君を愛するがゆえに変を示して戒める」と説き、帝の反省を促した。奎章閣・崇文監の廃止議論に反対し存続させ、科挙の復活、遼金宋三史編纂の端緒(司馬光『資治通鑑』進講の際の提言)、鄉飲酒礼の実施、唐の劉蕡・宋の邵雍の顕彰などを進言し、いずれも実現させた。
- 儒士を厚遇したことを問われ、世祖以来の裕宗の学問尊重の故事を引いて反論。至正五年(1345年)五月、翰林学士承旨から江浙行省平章政事を経て召還された直後、感熱病で没した。享年五十一、家貧しく葬儀の費用にも事欠いた。書は真行草に優れ晋人の筆意を得たと評され、諡は文忠。
庫庫の兄和和と子維山
- 兄の和和、字は子淵。成宗朝より太常寺少卿、武宗朝で使者として名声を得、大司農卿、江南行臺治書侍御史、淮西廉訪使、河南廉訪使などを歴任し、行省丞相の不法を抑えた。英宗朝で戸部尚書、南台侍御史、参議中書。泰定初年に漕運の議論で東南の民力軽減を実現し、太子詹事丞、江浙行省右丞、宣政院使として僧道の田租徴収を提言、中書右丞。明宗の崩御に涙し辞して数年間出仕せず、疾により没した。世に庫庫とともに「雙璧」と称された。
- 庫庫の子維山は崇文監丞、給事中、同僉太常礼儀院事、崇文太監を歴任した。