元史卷百四十三 列傳第三十 馬祖常

出自と科挙合格

  • 馬祖常、字は伯庸。世々永古特部に属し靖州天山に居した。高祖の実喇済蘇は金末に鳳翔兵馬判官として死節し恒州刺史を追贈され、子孫はその官名から「馬」を氏とした。曾祖伊克紐爾は世祖の宋征討に従い汴で餉運を掌り官は礼部尚書に至った。父潤は漳州路総管府の同知。
  • 七歳で書物を求め、蜀の儒者張某(実体参照欠字あり)に師事し、質疑に長けて評価された。延祐初年(1314年頃)の科挙で郷試・会試ともに首席、廷試も第二位となり、応奉翰林文字を授かった。

監察御史としての諫言

  • 監察御史として、仁宗が長らく東宮に留まり飲酒過度であることを諫め、朝儀の厳正化を求める上疏を行った。英宗が皇太子になると師傅の慎重な選任を進言。
  • 姦臣特們德爾の専横十罪を同僚とともに弾劾したが、仁宗の怒りを買い罷免された。秦州で山が動いた異変を「賢を用いず佞を放置する政道の乱れの兆し」として批判し、賢者の登用を進言した。
  • 特們德爾の死後、翰林待制、典宝少監・太子左贊善、礼部尚書などを歴任し、天暦元年(1328年)燕王内尉、二度の科挙貢挙で評価を得た。

晩年

  • 治書侍御史、江南行臺中丞、御史中丞などを歴任し、風紀の粛正に努めた。国族・諸部の子弟にも尊母の礼を教えるべきこと、将家子弟のために武学・武挙を建てるべきことを議論した。
  • 文章は先秦両漢を範とし独自の一家をなし、特に詩に優れた。『英宗実録』の編纂に参加し、『皇図大訓』『承華事略』を翻訳、『列后金鑑』『千秋記略』を編集して進呈した。文宗に「中原碩儒はただ祖常のみ」と称された。
  • 至元四年(1338年)没、享年六十。攄忠宣憲協正功臣・河南行省右丞・上護軍・魏郡公を追贈され、諡は文貞。